中日和田一浩外野手(42)が通算2000安打を達成した。残り2本として臨んだ「日本生命セ・パ交流戦」ロッテ3回戦で1回に先制の左前適時打。2回2死一塁で左腕植松から左翼線に安打を放った。プロ野球史上45人目。42歳11カ月での大台到達は13年谷繁の42歳4カ月を塗り替え最年長記録となった。残り15本としながら8月に右手首骨折でリタイアした昨年。オフの11月には右膝を「極秘手術」する苦難も乗り越えた。

 紆余(うよ)曲折の野球人生を歩んできた「ベンちゃん」が一流打者の仲間入りを果たした。メモリアル打は和田らしい鋭い当たりだった。1回の第1打席に左前打を放ち、あと1本とすると2回2死一塁の場面。ロッテ植松の直球を振り抜くと、ライナー気味の打球が左翼線に弾んだ。

 ベンチからは花束を握りしめた谷繁元信兼任監督(44)がサプライズで飛び出した。「1つの区切りだぞ。まだまだ、だぞ」。兄貴分の言葉に胸が熱くなった。スタンドでは絵美子夫人と4人の子ども、故郷岐阜から駆けつけた母美千子さんも祝福。西武時代から「師匠」と慕うロッテ伊東監督の前での偉業達成となった。

 和田 プロ入りしたころは、2000本は異次元。目標でもなかった。家族、両親、球団の方。いろんな方が僕の野球人生に関わってくれた。頑張った姿を見せられて良かった。

 42歳11カ月で達成した史上最年長の2000安打には、壮絶なドラマが隠されていた。昨年8月、あと15本というところで死球により右手首を骨折。そのまま戦列に戻れなかった。だが、本当に深刻だったのは右手首ではなく膝の痛みだった。昨年11月に右膝の「極秘手術」を受けた。右手首骨折で2軍調整している際に「おかしいな」と感じた。診断は半月板損傷と軟骨損傷。長年、豪快なスイングを支えてきた膝が悲鳴を上げていた。チーム内でも谷繁兼任監督らごく一部しか知らない内視鏡による手術。決して弱みを見せない男の闘いだった。

 支えがないと立ち上がれない。できるだけ膝を曲げない生活になった。和田家は床に座って食事をしていたが、術後はインターネット通販で購入した黒色のオフィスチェアに座り、台所で1人ぼっちの食事が続いた。

 選手生命を脅かす危機。救ってくれたのは、やはり家族だった。長男壮多朗くん(10)とは「パパ絶対に2000安打打つから」と約束した。ナゴヤ球場にリハビリに向かう朝には、必ず長女桃香ちゃん(2)を抱き上げた。「パパ頑張って」の言葉がパワーの源だった。

 「ホッとしてうれしいけど、優勝の時の方がうれしかった。どうにか今年も優勝したい」。選手である以上は頂点を目指す。チームのため、家族のため。そう思い続けた男が主役になった。【桝井聡】

 ▼和田が11日のロッテ3回戦の2回、植松から左翼線安打を放ってプロ野球45人目の通算2000安打を達成した。初安打は西武時代の97年5月7日のダイエー3回戦(福岡ドーム)で倉野から。42歳11カ月で達成は谷繁(中日)の42歳4カ月を抜く最年長記録となり、大学、社会人経由では古田(ヤクルト)宮本(ヤクルト)に次いで3人目。和田は西武時代に1032本、中日で969本。史上3人目の両リーグ1000安打にはあと31本に迫っている。

 ▼和田が初めて規定打席に到達したのはプロ6年目の02年、30歳のシーズンだった。2000安打した45人が初めて規定打席をクリアした年齢は10代7人、20代37人、30代1人で、和田の30歳シーズンは落合の28歳シーズンを上回る最高齢。20代で1度も規定打席に到達しない選手が達成したのは初めてだ。和田が29歳シーズンまでの5年間で打ったのはわずか149本。もちろん、45人の中では最少で、34歳シーズン終了時でもまだ874本。34歳までに1000本打っていないのも和田だけだ。35歳の07年から4年連続150安打以上を放ち、38歳の10年には自身最多の171安打をマーク。30歳でレギュラーをつかんだ遅咲きの和田が、最年長で2000安打を達成した。

 ▼現役で2000安打以上は小笠原、谷繁、和田の中日3選手だけ。同一球団の現役2000安打コンビは72年南海の野村と広瀬から始まり、14年中日の小笠原と谷繁まで過去11組あったが、現役2000安打トリオはプロ野球史上初。

 ◆日本プロ野球名球会 通算2000安打を達成した和田は名球会入りの資格を得た。名球会(78年発足)の参加資格は昭和以降生まれで、日米通算記録が投手は200勝か250セーブ、打者は2000安打以上。打者ではイチロー、松井秀喜、松井稼頭央、井口資仁が日米通算で2000本に到達している。