担当歴が長い記者はみな同じだと思う。原監督には「人付き合い」をしていただいた。どんなに下らない話題でも目線を合わせ、一生懸命に答えてくれた。野球の討論はもちろん、人生の先輩としても的確なアドバイスを頂き、くじけそうな時には支えてもらった。甘えてばかり、感謝しかない。

 失礼千万の思い出を記そう。09年の2月、宮崎。WBC合宿を終え、戦に向かう原監督を送り出そうと、巨人担当で食事会を催した。盛り上げ上手な方。おおいに食べて飲んで笑った。

 私は向かいに座っていた。調子に乗りすぎた。記憶があいまいになっていった。「監督、どうして栗原(当時広島)を落としてしまったんですか。彼はですね、合宿が終わって落選が決まった後も、『もう少し打ち込んでからチームに戻りたい』と、居残りで特打をしていたんです。彼こそ侍ですよ」と、同じフレーズを何度も繰り返していたという。

 監督は「そうなのか。うれしいな。素晴らしいな」と興味津々に聞いていたという。しかし私はその直後、両脇に座っていた記者との会話に夢中だったという。ひっくり返ってふすまを倒す始末で、そのまま散会したという。

 どうやって宿に戻ったか覚えていない。砂漠でのどがカラカラになり、ひからびて死んでしまう夢を見たことを覚えている。飲み過ぎた夜、必ず見る悪夢であった。のどが渇いて目が覚めた翌朝5時、一糸まとわぬ姿だった。猛烈な頭痛の中で「とんでもないことをしでかした」と悟った。

 同席した人にてんまつを聞いた。怒鳴りつけられても仕方あるまい。朝の球場入りを待って「監督、昨晩はスイマセンでした」と頭を下げた。「いいよいいよ。あれだけおいしそうに飲んだんだ。お酒の神様、バッカスも喜んでくれただろうさ」と、さわやかに肩をたたいてくれて救われた。

 果たして1カ月後、栗原である。侍ジャパンがアメリカに渡った後、村田が試合中に足を負傷した。原監督はアクシデントの4分後、オープン戦中の栗原を日本から呼び寄せた。決勝の韓国戦ではスタメン起用した。

 この連載中、WBCを回顧する項がある。本文には触れなかったやりとりがある。「監督、栗原君を呼びましたね」「うん。決断はすぐだったよ」「話、覚えていてくれたんですね」「何を?」。…酔っぱらいの戯れ言が決め手になるわけがない。あの晩の蛮行を振り返って、笑い飛ばしていた。

 第2次政権のスタートとなった06年から巨人担当になり、丸10年。当初言われたことをよく覚えている。「ただ立っているだけ、人の話を聞いているだけじゃ、記者じゃないぞ。自分で動かないと、存在する意味がない。職場放棄と見なすよ。失敗してもいいじゃないか」。今でも仕事の支えにしている言葉だ。

 消極からは何も生まれない。宴席でありえない無礼だけど、黙っているよりましだったか…。何をやっても、最後はポジティブに決着してしまう。良くも悪くも「ふてぶてしさ」を授けてもらった。例えるなら太陽。すべてを受け止める度量が原監督にはあった。【宮下敬至】