プレーバック日刊スポーツ! 過去の6月16日付紙面を振り返ります。2005年の1面(東京版)は日本ハム・ダルビッシュが高卒ルーキー初登板で初勝利を飾りました。◇ ◇ ◇

<日本ハム8-2広島>◇15日◇札幌ドーム

 プロ野球新時代を担うニューヒーローが誕生した。日本ハムのダルビッシュ有投手(18)が、連続被弾し惜しくも9回途中に降板したが、広島相手に9安打2失点で初登板初勝利を飾った。

 高卒ルーキーとしては、99年の西武松坂以来12人目となる快挙だ。

 故障で出遅れ、喫煙問題で謹慎処分を受け、華やかな甲子園時代とは一変した厳しい道のりだったが、「尊敬されるプロ野球選手に」の誓いを込めて、116球を投げ抜いた。改革元年の目玉であるセ・パ交流戦の最終カードで、堂々のデビューを果たした。

 スタンドの悲鳴とは対照的に、マウンド上のダルビッシュは苦笑いしていた。プロ初登板初完封まで、あと3アウトと迫りながら、新井、野村に連続被弾した。ヒルマン監督が投手交代を告げると、ブーイングに変わった。それでも初勝利は間違いない。「一番うれしい勝利でもあり、一番悔しい勝利」と語った心境で、マウンドを降りた。今度は、大歓声になった。

 遠回りだったかもしれない。2万4375人を前に、初めてのお立ち台に上がった。「いろいろ迷惑をかけたのでファンの皆さん、選手の皆さんにいつか、しっかりとお返ししたいと思っていた」と頭を下げた。

 甲子園で注目され続けたが、この日まで平たんな道ではなかった。1月の新人合同自主トレ初日に右ひざ関節炎が発覚した。水がたまっていた。キャンプで「焦りはない」と言い続けたが、あこがれのプロに入って野球ができない。高校2年から右肩痛の不安もあった。「もう投げられないんじゃないか」と思った。

 別メニューを続けていた2月沖縄キャンプでは、喫煙の不祥事で無期限の謹慎処分が下された。寮の近くでファンから厳しい言葉が飛んだ。同月下旬、藤井仙台市長が「(楽天に)東北出身が欲しかったが、今はダルビッシュが入らなくて良かったと思う」などと話した。そんな中、「自分のやったことが悪い」と言い続けた。フォームなど図解入りの日記をつけ始めた。「絶対にはい上がる。だれからも尊敬されるプロ野球選手になる」と誓った。

 その気持ちは初回から表れた。先頭の福地を投ゴロに打ち取り波に乗った。カーブ、スライダー、シンカーと多彩な変化球でほんろうした。3、4、5回と走者を塁に出すが、併殺で切り抜けた。7回の1死満塁も「応援してくれるファンのみなさんを前に打たれたらアカンと思って、低めに投げた」と、直球だけで攻めピンチを脱した。

 力投するルーキーに打線が応えた。女房役の高橋信、チームリーダー小笠原、そして新庄が3本の本塁打を放った。5回までに大量7点を奪い援護した。先発陣のミラバル、金村がけがで離脱する中、交流戦最下位を脱出した。ヒルマン監督は「素晴らしい投球。まったく文句のつけようがない」と、たたえた。

 試合後、ウイニングボールを渡された。「スタンドに投げようかと思ったんですけど、お父さんが泣くので」と笑った。父ファルサさん(45)は、イランからプロサッカー選手を目指し米留学しながら、同じ右ひざ関節炎で断念した。夢を息子に託し、プロへの道を支え続けてきた。手をたたいて観戦した父に「今まで育ててくれてありがとう」と、お立ち台から感謝の言葉を初めて口にした。日本のエース松坂に並んだ。「夢は北海道日本ハムファイターズが優勝すること」と宣言した。道は始まったばかりだが、交流戦でさっそうと登場したニューヒーローが、プロ野球新時代そのものを象徴していた。

◇ダルビッシュ有◇

◆誕生 86年8月16日、大阪・松原市の病院で産まれる。52・5センチ、3300グラム。世界でもすぐに覚えられるよう「YOU」から「有」と命名される。

◆野球との出合い 7歳のとき、友達と野球チームに入ったのが始めるきっかけ。中学1年でボーイズリーグのオール羽曳野に入団。中学3年のとき日本代表として世界少年野球選手権に出場。

◆高校時代 地元を含め、30校以上の誘いの中から東北に進学した。1年秋からエース。4季連続甲子園出場を果たし、2年夏に準優勝、昨年春の選抜1回戦では熊本工相手に無安打無得点を達成した。

◆プロ入り 昨年ドラフト1巡目で日本ハムに入団も、同11月に右ひざ関節炎を発症。今年2月のキャンプも軽いメニューで調整と出遅れた。さらにパチンコ店での喫煙が発覚し、3月9日まで謹慎処分を受けた。

◆サイズ 195センチ、85キロ。右投げ右打ち。

※記録や表記は当時のもの