野球もケンカも腕っぷしが強い星野仙一の名前は、2年の秋にはすっかり県内に知れ渡っていた。1963年(昭38)の11月23日。倉敷商野球部の同級生2人と誘い合い、市内へ繰り出した。

 星野が住む三菱重工水島の寮から学校までは、自転車で40分ほどかかる。翌朝のあんパンをかけて、同方向の仲間とどちらが早く着くか毎日競争した。「大きな野球道具を積んでな。車もいないから、競輪選手みたいに思いっきりこぐわけだ」。足腰が鍛えられ、どんどん大きくなっていくのが分かった。

 勤労感謝の日で学校は休み。いつもと違ってゆっくり自転車をこいだ。北風が冷たい日だった。カゴにはいつもの野球道具ではなく、悪友が仕入れてきたライフル型のポンプ銃が入っていた。当時の最新型で、人に向けたら危険な威力があった。動く何かを狙って撃ちたい。狩人の衝動に駆られた。「スズメがいいんじゃないか」となり、探すことにした。

 ライフル型の銃を持った大柄、丸刈り、学生服の3人が、キョロキョロしながら市内をはいかいしている。ときたま、空や地面に向かって発射しているようにも見える。通報された。「補導員が『学校には言わないから住所と名前を』と。正直に言ったら、ばらされて。警察に呼ばれてから、職員室で怒られた」。部長の角田が、きまり悪そうに身をすくめている。「部長先生に悪いな」と思いながら、ストーブの前で何時間も立たされた。

 「寒かったし、ちょうど良かったか。帰ろう」。翌日は、後に甲子園をかけて戦うことになる米子南との招待野球が控えていた。自宅に戻ってテレビをつけた。アナウンサーが緊張していた。

 「この記念すべき日に、誠に悲しい出来事をお送りしなくてはいけません。アメリカ合衆国のケネディ大統領は11月22日、日本時間23日の午前4時ころ、テキサス州ダラスで銃弾に撃たれ、死亡しました…」

 そういえば市内では号外を配っていた。日本が衛星放送に成功した日に届いた重大ニュース。「オレがポンプ銃を撃っていたのは偶然なんだけど…」。忘れられない出来事になった。

 翌年にテレビがカラーになり、東京五輪が行われ、東海道新幹線が開通した。星野が今でも大好きな、坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした。「3年の時に、学校で五輪観戦の募集があったの。サッカーかバレーボール。東京に行ったことなかったから、おふくろに頼んで。でも、あまりにも多いから抽選になって、落選。新幹線は大学受験で初めて乗った。あれ? 音もしないで走ってるってな」。

 高度経済成長のど真ん中。「元気な時代。世の中『さぁ、やるぞ~』っていう活気に満ちていた。我々、団塊世代の前の方々が頑張ったから、今がある」。おおらかな星野のルーツには、おおらかな時代背景も深い影響を与えている。(敬称略=つづく)

【宮下敬至】