古きをたずねて新しきを知る-。阪神球団唯一の日本一に輝いた1985年(昭60)から34年。平成から新元号令和の時代を迎えようとする中、矢野阪神がスタートした。ニッカン新企画として、85年のトラ番記者であり、元大阪・和泉市長を務めた経歴を持つ井坂善行氏(64)が、85年の日本一からの学びを矢野阪神に注入する提言リポートを届ける。タイトルは「猛虎知新」。第1回は盗塁の「質」に迫る。

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もしアウトになっていたら、もしあの伝説のバックスクリーン3連発がなかったら…それは、85年の阪神日本一も実現していなかったかもしれない、大きな大きな盗塁だった。

85年の4月といえば、巨人・槙原からのバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発が強烈な印象として残り、今もなお語り草となっているが、実はその直前、この試合どころか、85年の阪神のペナントレースをも左右するプレーがあったことをご存じだろうか。

場面は1-3、2点ビハインドで迎えた7回裏である。中前打で出塁した木戸に代走・北村。1死後、北村は打者・真弓のカウント3-1から走った。結果を先に書くと、盗塁は成功し、真弓が四球で歩いて、弘田が左飛。2死一、二塁から3連発の幕が開くのだが、常識的に振り返れば、この盗塁は無謀だった。真弓か弘田が出塁すれば、走者2人の状況でクリーンアップを迎えるのだから、北村の盗塁が失敗していたら、と考えると、ある意味セオリー無視の盗塁だった。

久しぶりに北村に電話をした。「ええ、ありましたね。ただ、あの年は走ってはいけない時だけサインが出て、それ以外はフリーだったんですよ。槙原がノーマークだったので走りました」。ベンチで指揮を執る吉田監督も直撃したが、「そうでしたかね。その場面はあまり記憶にないんですわ」と申し訳なさそうに答えてくれた。

ただ、結果的には1発出れば逆転という状況が生まれ、好投していた槙原にプレッシャーがかかることになる。そこを史上最強のクリーンアップが襲いかかるのだが、無謀とも思える1つの盗塁が伝説の伏線となったことは間違いない。

さて、昭和から平成、そして令和の新元号とともに矢野阪神の挑戦が始まった。2軍監督としてリーグ記録の盗塁数(163)を打ち立て、2軍日本一になった。盗塁については「結果を恐れず挑戦すること」と言い続けるが、盗塁は数だけではない。果たして、1年目の矢野阪神の行方を左右するような「質」のいい盗塁が生まれるかどうか。

▽85年の開幕戦も「主役」は北村だった。相手は広島。3-3の同点で迎えた10回表、先頭の代打・北村は中前打で出塁し、続く真弓は送って1死二塁。ここで、北村が広島の二塁手・木下の「隠し球」に引っかかって憤死。その裏、広島にサヨナラ勝ちを決められる黒星発進となった。

試合後の吉田監督のコメントが忘れられない。「野球とはこんなものですわ」。負けず嫌いな性格、ハラワタは煮えくり返っていたことだろう。その思いを押し殺し、強がってみせたが、近くにいた私には、はっきりと血走っている目が見えた。

先日、その話を吉田監督にぶつけると、さすがに34年前のことなので怒りはなかったが、「ただね。ランナーの北村より、コーチ全員が自主的に5万円ずつ罰金を申し出てきて払ったんですよ」と教えてくれた。「野球とはこんなもの」と表現したが、1球の大切さを知った5万円は高くはなかった。

◆85年阪神Vと盗塁 チーム計60盗塁は、ヤクルト29盗塁についでセ・リーグ5位。最多の大洋(現DeNA)188盗塁の1/3以下に終わっている。とはいえ盗塁を記録した48試合で、チームは33勝13敗2分け、勝率7割1分7厘。盗塁のなかった82試合での41勝36敗5分け、5割3分2厘から大幅にはね上がった。