阪神ドラフト1位西純矢投手(18)と、父雅和さんの別れは突然だった。17年10月7日の夜、雅和さんが倒れたと創志学園に連絡が入った。秋季岡山大会、おかやま山陽との3位決定戦。西も3番手として登板したが、敗れた試合の直後だった。

その日の深夜、西は迎えに来た親戚に連れられて病院へと向かった。数日間の昏睡(こんすい)状態が続き11日、雅和さんは息を引き取った。45歳の若さだった。通夜で西は気丈に参列者にあいさつしたが、創志学園の中川隆太部長らが声を掛けると、ぽろぽろと涙を流した。

雅和さんは人工透析を行いながら、週末の練習試合には毎試合のように足を運んだ。「場所がどんなに遠くても絶対来てくれるような感じでした。広島から岡山に車で来るだけでも結構しんどいと思うんですけど、それを1人で来てくれていたりしました」。西が試合で登板した翌日、ベンチを外れる時は2人で話をし、「頑張れ」と背中を押してくれた。1年春からベンチ入りし、心細い思いもあった西にとって、雅和さんは心の支えだった。

「なかなか切り替えられなかったです。今でもたまに、お父さんがいたらな、って思うこともあります」。

雅和さんが亡くなった約1カ月後、西は母美江さんから電話をもらった。「前を向いて頑張っていってほしい」。まだ16歳になったばかり。つらすぎる別れに練習に身が入らないのも無理はなかった。それでも西は、必死に自分を奮い立たせた。「自分も引きずってばかりだったら、その先の成長というか、その先がないと思った。切り替えられはしないですけど、次に向かってやっていくしかないなと思いました」。

野球部の仲間たちも温かかった。1つ上の先輩たちは優しく、そして時に厳しく西に接した。練習に身が入らない時にはすぐに叱り、試合中にいらだちを見せた時にはベンチの裏で「冷静に試合をやれ」といなした。早朝5時から練習に連れ出してくれる先輩もいた。「そうやってお父さんが亡くなった時とか、なかなか練習にも身が入らなかった時に、声を掛けてくれたりとか、一緒に練習につき合ってくれたり」。西はそう感謝する。

そして18年夏、創志学園は夏の甲子園出場を果たす。エースナンバーをつけた2年生の西は、初戦の創成館戦で16三振を奪い、完封勝利。最速は149キロを記録した。1球1球に熱い思いを込め、投げる度に帽子を飛ばした。力強いガッツポーズは甲子園を大いにわかせた。「お父さんのためでもあったと思うんですけど、一番は本当に1個上の先輩。本当に自分は良くしてもらっていた。1日でも長く、その先輩たちと野球をやりたいと思っていて。その時はすごくうれしくて、そういうガッツポーズが出ていた」。

自分を支えてくれた先輩への感謝、そして少しでも長く一緒に野球がしたいという思い。派手なガッツポーズにはそんな気持ちが込められていた。しかし全ての人が、それを理解してくれたわけではなかった。(つづく)