時代を同じくして名捕手、名監督の道を歩み、しのぎを削り合ってきた森祗晶氏(83)。逸話をひもときながら悼んだ。

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古い言い方だが「戦友」と呼ばせてもらう。1957年(昭32年)、高知でのオープン戦で初めて会った。以来、半世紀以上の付き合いだが、私以上に野村さんと野球の話をした人間はいないだろう。気がついたら朝だった、ということが一体、何度あったか。

違うリーグだからこそだが、日本シリーズの前には当時西宮にあった野村さんの自宅に泊まり込み、相手チームを研究した。阪急と初めて対戦した67年(昭42)、主軸を打つスペンサーをどう抑えるか。クセや配球を読むのがとてもうまいと教えてもらい、それを逆手に取らせてもらった。

第2戦の初回無死一、二塁でスペンサーを3球三振に仕留めた。当時の巨人は2球で追い込んだ場合、3球目は外して様子をみていた。スペンサーも絶対に外してくると思ったのだろう。手を出さなかった。その試合を1-0で勝ち、シリーズを4勝2敗で制すと、以後、私がいる間は阪急には負けなかった。

南海とも日本シリーズを戦ったが、この時はやりづらかった。でも打者野村を攻略しないと勝てない。野村さんは配球を読んで絞ってくるので、なんとかその逆をいこうと必死だった。でも知恵比べは楽しかった。その集大成が、お互いに監督になって戦った92年(平4)と93年(平5)の日本シリーズだ。

2年とも第7戦までもつれた。仕掛けても「その手に乗るか」とお互い逆をいくので、流れは行ったり来たり。その中で印象深いのが92年の第7戦だ。1-1で延長戦に入り、西武が先に1死三塁の好機をつくった。打者は3番秋山。清原をすでに下げ、4番には奈良原が入っていた。秋山が歩かされたら困るな、スクイズも外される恐れがあるからできないと思っていたら、勝負。秋山が犠飛を放ち、その1点を守って優勝した。

あとでなぜ秋山と勝負したのか聞いてみた。「歩かせても、三塁の辻、一塁の秋山、奈良原も足が速い。何をやってくるか分からない。岡林のスライダーが決まれば、秋山の方が三振が取りやすい」。そのスライダーがほんの少し甘くならなかったら、結果は逆だったかもしれない。互いに知力を尽くした92、93年は最高の日本シリーズだったと思う。

野村さんと最後に会ったのは、2年前の巨人ホークスOB戦。ホテルで2時間くらい話をした。「ハワイからよく来てくれたな」と言っていただいたのが、最後の言葉になった。もう野球の話ができないと思うとつらい。(日刊スポーツ評論家)