プロ野球の大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が死去したことが9日、分かった。93歳。

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ヤクルト監督時代に、秋季キャンプ地の静岡・伊東に出向いた。当時は万年Bクラス。お世辞にも、注目球団ではなかった。

練習後、閑散とした宿舎玄関でうろうろしていると声を掛けられた。若い記者を孫のように思ってくれたかもしれない。

「お前さん、せっかく伊東まで来たんだからゆっくりしていきなよ」。手招きされ、和室の監督部屋に案内された。

ユニホームを脱ぎ、ステテコに袢纏(はんてん)姿。肌寒い日だった。こたつに足を突っ込んで、関根監督に“記者のイロハ”を教えてもらった。

「今からさ、この電話がなるからよ。まあ見ててみなよ」

当時は黒電話。しばらくすると、呼び鈴が鳴って、会話が始まった。「●●だね、わかった。じゃあ根もっちゃん、後はよろしく頼んだよ」。電話の相手は根本陸夫氏だった。

当時は西武管理部長。広島、西武、ダイエーなどで監督を務めた根本氏は、日大三中(現日大三高)時代の同級生であり、近鉄でバッテリーを組んだ球界の盟友。「あんた、聞いてただろ。こうやってトレード交渉をやってるんだよ」。

落ち着いた物腰、柔和な表情だが、瞳の奥は笑っていなかった。どうして記者にこんな大事な交渉場面を見せてくれたのかは、わからない。球界の舞台裏はこういうもんだ、と教えてくれたのかも知れない。「でも今日の話は書いちゃダメだよ。人(選手)にはそれぞれ人生がある」。きりっとした目つきで、釘を刺された。

伊東は、関根監督にとって思い出深い地だった。巨人長嶋政権1年目の1975年、ヘッドコーチを務めたが、最下位に沈んだ。長嶋巨人はオフに地獄の秋季キャンプを断行した。

「若い選手には、ここでキャンプをやることを肌で感じて欲しいんだよね」。チームは違えど、後にヤクルトの主砲に成長する池山や広沢といった若手に、伝説の伊東キャンプを体験させたかったのだろう。

「いい部屋だろ。ここの窓からグラウンドが見えるんだよ」。眼下の球場では、まだ居残り練習が続いていた。今を思えば、記者にも“伝説”を体感させてくれたのかもしれない。30年以上も前のことだが、忘れられない、1時間だった。【田 誠】