日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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ソフトバンク3軍のコンディショニング担当だった川村隆史が、天国に旅立った。9月15日。遠征先の神戸市内で、くも膜下出血のため死去。55歳だった。

千賀、甲斐、周東らのように、育成契約から主力に育って1軍の舞台に上がっていくチーム作りは理想的だ。川村はそんな育成システムを下支えしてきた。

プロの世界に足を踏み入れた当時、「科学的」と称されるトレーニングは珍しかった。コーチに「コンディショニング」の肩書がつくこともなかった。

スポーツを科学する専門家はいくらでもいた。しかし、それを現場に持ち込んだのは、ダイエー入りした手塚一志、近鉄、ロッテなどで指導した立花龍司らがハシリだった。

1992年(平4)、そのベンチャーに続いたのが田淵幸一率いるダイエーの門をたたいた川村だ。トレーニングを追究し続ける姿勢は、彼の実直な性格を映していた。

元阪急、オリックスコーチの安田昌玄(大体大スポーツ科学センターS&Cディレクター)は「とにかく熱心で個人だけでなく全体を見渡せた人材だった」と振り返った。

オフになると自腹で渡米し、メジャーリーグのトレーニングを見て回った。母校の大体大で開催された少年少女野球教室、講師役の指導者講習会には、福岡から手弁当で駆けつけた。

すべてを“科学”に手を染めたわけではない。いくら最新式トレーニングを採用しても、受け手側の選手が吸収できなければ、教えるコーチの自己満足でしかない。

例えば、日本ハム時代の大谷は、あの手足が長いボディーからいかに大きな力を生み出すかの考えが指導者と融合した。だから投打の技術向上にもつながったのだろう。

トレーニング効果というのは数字に表れても、その成果は評価しにくい。川村のあふれる情熱が信頼関係を築き、選手に浸透したことが、ソフトバンクの原動力になっていった。

遺影のなかの川村はこちらにほほ笑んでいるようだった。いつも別れ際のあいさつは決まっていた。「もう少し頑張ってみます」。常勝ホークスに“育成の人”の指針は欠かせなかった。(敬称略)