もしかしたら、私は鶴岡一人を取材した最後の記者かもしれない。少なくとも最晩年の肉声に触れた、数少ないひとりだろう。その訃報を聞くおよそ5カ月前、1999年(平11)の初秋、鶴岡を訪ねた日のことを、大型連載「監督」を読んで思い出した。

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9月も末だというのに、残暑の厳しい日だった。

「現役のころは、(大阪)市内でないと不便やったんで帝塚山(同市住吉区)におりましたが、引退後は、こっちに来ましてね」

大阪・中百舌鳥(現堺市北区)の自宅で鶴岡は、そんなことを言いながら、私を応接間に招じ入れた。中百舌鳥は鶴岡が復員後、若い選手ととも寝食をともにし、常勝チームの礎を作った土地だ。先立った先妻と暮らし、愛娘を事故で亡くした場所でもある。何より、南海2軍の本拠だった中モズ球場が、鶴岡邸のすぐ近くに残っていた。「やはり中百舌鳥なんですね」と聞いてみた。

「昔の人は、みんな死んだけど、一緒に汗を流したころを時々、思い出しますよ。そういう面では愛着があるのかなぁ」

60年代、三原脩、水原茂と並んでプロ野球3大監督と称された「鶴岡親分」。南海の監督退任後もさまざまな球団からのオファーが舞い込んだという。

「私はね、軍隊で6年(40~45年)やって、嫌というほど負けたんです。九州は小倉の練兵場から長崎、知覧(鹿児島県)と歩きました。敗残兵ですわね。だから負けると腹が立ってねぇ。でも54歳で監督を辞めた時は、あんまり腹が立たなくなっていました」

83歳になった鶴岡の表情には、監督時代の厳しさが消え、好々爺(や)然とした穏やかな笑みが浮かんでいた。

「今は、選手も選手の考え方も変わってます。私は古い考えを変えるというわけにはいかないんでねぇ。時代が違います。息子には時々、『もう古いで』言われますわ」

この日の取材は、ダイエー球団創設初、ホークスとして26年ぶりの優勝について、ゆかりの人々にインタビューする、というものだった。

「小学校4年生の孫に『おめでとう』と言われました。古い選手がマネジャーや用具係で元気にやってるのを見るとうれしいですわ。でも愛着が薄れてくることも確かにありますね。南海とダイエーは別のチームですが、大阪でのダイエー戦はお客が入る。大阪のファンは寂しいんですよ。『ホークス』という名前があるから応援しやすいんでしょうなぁ」

チームが福岡へ去って10年。かつての本拠・大阪球場はすでになかった。大阪の街から「南海ホークス」の記憶が消えゆく中、59年の日本シリーズで巨人を倒し、「御堂筋パレード」で涙する鶴岡を懐かしむオールドファンも、取材当時はまだ多くが健在だった。

「やっぱり感激しました。いつも巨人に負けて『ジャイアンツをたたかな』と思っていましたから。同じ優勝でもうれしさが違います」

ふと笑って、鶴岡はこんな話をした。

「たまに孫を連れてなんばへ出て、大阪球場(跡地)を見に行きますわ。『ここはなぁ、球場やったんやで』と。あのあたりも変わりましたね。時代の流れやなぁ。年をとると、おっつけんですわ」

長いプロ野球史にその名を刻む名将・鶴岡一人が晩年、孫の手を引いて、かつて栄光をつかんだ御堂筋を歩いている。振り返る人もなく、いつしか老人と孫はなんばの喧噪(けんそう)に紛れていく-。一幅の絵画のようだったに違いない。

取材の終わりに、鶴岡は「祝勝会へは、よう行かんかも分からんなぁ。ワンちゃん(王貞治・ダイエー監督)と握手したいけど、行けるかなぁ」と言った。取材に応じる姿に思いは及ばなかったが、今思えば、福岡へ出向く体ではなかったのかもしれない。

その5カ月後、鶴岡の訃報を聞いた。(敬称略)【秋山惣一郎】

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