1977年(昭52)の南海監督解任で、ホークスとは永遠の決別と思われたが、野村さんにもノスタルジーがあった。京都・丹後の生まれ。父親の戦死で貧しく苦しく育った野村さんにとってみれば、南海というチームは父親代わりでもあったかもしれない。

「今はホークスは福岡ソフトバンクホークスに変わりましたけど、やっぱり南海ホークスのつながりというのは、いつも僕の中では切り離せませんでしたから。ソフトバンク(ホークス)の行動というのは非常に気にかけていましたね」

楽天の監督時代に監督通算1500勝を達成した。南海、ヤクルト、阪神、そして楽天とプロ4球団の監督を務めたが、思わぬ感慨があった。リーダー論を熱く語る野村さんだが、あらためてビジネス界のトップに君臨する男の気遣いに驚かされた。

「僕が監督1500勝を達成したときに、祝電をいただいたんですよ。ソフトバンクの孫(正義)社長ね。すごいと思った。長いこと野球界にいますけど、いろんな記録も作ってきていますけど、(球団の)オーナーから祝電をもらったのは後にも先にも孫さんだけですよ。孫さんの名前で祝電をいただきまして、本当に恐縮でした。ありがたかったですね」

夫人の不祥事で阪神監督を辞任した後、野村さんは社会人チームのシダックス監督に招聘(しょうへい)された。どん底の時代に手を差し伸べてくれたシダックスの志太勤会長を野村さんは終生、恩人と言った。著書でも「苦しいときに、いかに助けてくれる人がいるかが大切」と力説した。3年間、シダックス監督として弱小チームを都市対抗決勝まで導いた。

「私はプロ野球とアマチュア野球の監督を経験していますけど、決定的に違うのは、プロ野球というのは個人記録が給料のベースになっているじゃないですか。アマチュアはホームラン何本打とうが、何勝しようが、みんな給料は同じなんですよ。だからみんなが優勝のために頑張ろうと。1つになりやすいんですよ。3年間、アマチュアの監督をやったんですけど、いい勉強になりました」

03年の都市対抗は決勝まで進出。惜しくも準Vに終わったが、野村さんには大きな反省があった。

「7回までリードしていた。ポンと優勝していいのかな、と思っちゃった。ふとネット裏を見たら社会人野球の会長が座っていた。それが気になってね。リリーフを送れば逃げ切れたのに、先発続投させたら逆転負け。バカな経験もしました」

何度も頭をかいて当時を振り返った野村さんだったが、代名詞といえる「ID野球」の基礎は、南海時代に確立したものだった。【取材・構成=佐竹英治】(つづく)