日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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上田利治が生まれ育った徳島・宍喰(ししくい)町(現海陽町)の役場前には、阪急ブレーブスを率いて初めて日本一になった際に植樹した松の木がしっかりと根を張っている。

1974年(昭49)、西本幸雄の辞任でコーチから阪急監督に就いた。75年にリーグ優勝し、日本シリーズで古葉竹識率いる広島を撃破。球団としては6度目の挑戦で初めて頂点に上り詰めた。

監督初年度が2位に甘んじると、マルカーノ、ウイリアムスの新外国人を獲得。1、2番の福本豊、大熊忠義から、加藤秀司、長池徳二ら勝負強い打線で、投手陣は足立光宏、山田久志に、新人山口高志がフル回転した。

宍喰町史によると、連覇した76年12月18日に、同町でV2を祝した優勝パレードが行われている。当時の人口が4559人(76年4月1日時点、海陽町役場調べ)だった小さな町は「犬と猫が家の留守番をした」といわれたほどの人出だった。

メインストリートをゆっくりと進んだオープンカーには上田とともに、町長の山上弘も乗り込んだ。沿道の町民がユニホーム姿の男に日の丸の旗を振っている光景は、まさに英雄の凱旋(がいせん)だった。

盛大なパレードを仕切ったのは当時、同町体育協会事務局長だった浜田永治(80)だ。

「盛り上がりはすごかったですよ。こんな田舎やから、パレード後の祝賀会をする場所がなかった。町民センターの3階を借りたわけですが、町民が入りきらないので、ずいぶんと入場を断りましたよ」

上田は5人兄弟の長男だった。今も地元に住む6歳下の次女、吉中香(77)は町をあげてのパレードを思い出して「人がいっぱいできりきり舞いでした」と懐かしんだ。

「宍喰は海も近くていいところです。兄さんは宍喰小4年のときに父親にグラブを買ってもらったのが野球をするきっかけだったようです。頭が良くて、やさしくて、ええ兄さんでした。さみしいです」

戦中戦後の時代で、生計は苦しかった。父武夫はトラックに乗ったり、自転車店を営んだ。母あごは魚の行商でリヤカーを押しながら家計を救った。終戦の翌年、武夫からグラブを買い与えられた上田少年は、野球のとりこになっていく。

上田の実家の裏に、かつて母が押した1台のリヤカーがしまってあった。近海で取れた魚を積んで、家族と生きるために売りに歩いた。香はそのリヤカーを修理しながら、残しているのだという。

中学時代から本格的に野球に取り組んだ後、地元の海南高に進学。上田は投手には興味を示さず、“グラウンドの監督”と称される捕手道を貫いていった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。