物事には、何事にも始まりがある。75年前の3月6日、日刊スポーツ新聞社が日本初のスポーツ新聞として産声を上げた。そこから75年。日刊スポーツに携わる多くの人間が日々、新聞作りに尽力してきた。記者は多くの取材対象者と言葉をかわし、思いをぶつけ、時には主張しあい、さまざまな物語を伝えてきた。一流と呼ばれる選手は、良い時だけでなくうまくいかなかった時でさえ何度も取り上げられ、世の中の人々の心に刻まれる“ヒーロー”や“ヒロイン”になる。

巨人の原辰徳監督(62)も、その1人だ。プロ入り前から注目を浴び、巨人入団後の現役生活に引退後の指導者人生も含め、何度も日刊スポーツの紙面を華やかに飾ってくれた。原監督の名前や顔を知らない人は、日本中にほぼいないと言っていいだろう。これほどのレジェンドが初めて新聞に載ったのは、いつなのだろう-。6日の試合前、遠い記憶の糸をたどる困難が予想される失礼を承知で、取材した。新聞に載った「始まりの日」は、原監督の記憶にしっかりと刻まれていた。

原監督 最初に新聞に出たのが日刊スポーツだった。高校時代に。当時、日刊に軍司記者(軍司貞則記者)がいて。1面があって(ページを)開けるでしょ、そこのこのくらいの記事。軍司さんが写真を撮ってくれた。“親子鷹”って。

ページをめくるジェスチャーをすると、親指と人さし指の間隔を10センチほど開けた。1974年6月26日付の日刊スポーツ。2面に王貞治氏が「行くぞ!甲子園」と題字を記した企画があり、「東海へ 夢再び“父子鷹” 原監督と4番・辰徳君」と見出しの立った囲み記事が、確かにあった。

原監督 うちの父は有名でしたし、その息子で1年生で、銚子商業と練習試合をして、それを書いてくださった。うれしくてね。新聞に出たことが。その前に地元の新聞にね、ちょこっと名前が出た。三塁手には新1年生の原が入りそうだ、って。でも、日刊スポーツというものが最初で、すごく覚えていますね。

何千回、何万回、いやそれ以上も、「原辰徳」の記事は新聞に載り、読者の喜びや活力になってきた。そんな野球人・原辰徳の“出発点”を、47年をへた今でもしっかりと覚えていた。

原監督にとって、スポーツ新聞記者とは何か-。そう尋ねると、取材を受けた記者の方々の顔を浮かべているかのように、穏やかな笑みを浮かべながら言葉をつむいだ。

原監督 アマチュアの時は、新聞記者というのはいい人だった。アマチュアの(担当)記者は、何となく育ててくれた感じがある。お兄ちゃんであり、お父さんであり、教育的だった。プロに入っていい人ばかりじゃないんだなと。正しいことをやったって、なかなかそうは受け取らない。

プロ1年目、忘れられない出来事がある。春季キャンプインの直前、日刊スポーツのアマチュア担当から巨人担当になった記者に「(厳しいことを)書かれるかもしれないけど気にしないで、負けないで」と、声を掛けられたという。結果が出なければ目にしたくない記事も書かれるのが、プロの世界。すでに理解していた原監督は、その年のキャンプ初のシート打撃で場外弾を放ち、各記者に実力を示した。プレーで、言葉で、考えや思いを記者に託して届けてきた。

今季、ドラフトで巨人には育成選手も含め19人もの新入団選手が加わった。何人が創刊76年目の紙面を飾ることになるのだろうか。新型コロナの影響で、直接取材ができる機会は少ない。でも、それは言い訳にならない。先人が築きあげてきた思いを無駄にせず、五感を研ぎ澄ましながら取材に励み、バトンをつないでいく-。創刊75周年の節目に原監督の“スタート地点”に触れ、足もとを再確認した。【浜本卓也】