東日本大震災から11日で丸10年を迎えた。ロッテ佐々木朗希投手(19)の故郷、岩手県陸前高田市はまだ復興の途上にある。「あれから10年」の今、町はどうなっているのか。震災2年後から三陸を訪れ続けるロッテ担当記者が、佐々木朗の母校・大船渡高校から陸前高田・奇跡の一本松までの約20キロを歩いた。
大船渡市民の1日は、朝7時に「エーデルワイス」のチャイムで始まる。寝坊で30分ほど遅刻し、大船渡高校から出発。小学生の登校時間に重なった。
希代の右腕が何度も駆け上がった「大高坂」の下をたくさんの児童が歩く。高学年児童の後ろに低学年。高低低中低低高低低中…と守るように列をつくって登校する。「おはようございます」は元気いっぱい。近くの小学校は震災後の朗希少年の転校先であり、転居先でもあった。
校庭の仮設住宅で母と兄弟で暮らした。失意の10年前。「学校に行って…4月くらいには切り替えられたというか、いつも通りになれたのかなと思います」と振り返る。「夢中になれる時間があったおかげで、大変だった時とかつらい時も頑張れたと思う」。野球の救いを感謝する。
橋を渡ると盛(さかり)の商店街に入る。祭りでは山車が出る。「1年に1回、山車の時しか会わない人もいるけどね」と笑う人をあっさり紹介してくれたのは、その1年に1回しか会わない人だ。「このあたりは、地震が起きたら避難しろって教えをあまり受けていなかった」という。
盛から南へ、大船渡町が近づくにつれ、津波到達地点の表示も2、3、5メートル…とどんどん高くなる。県道230号線。かつて甲子園で大船渡旋風が起きた後、パレードが行われた道だ。今は空き地も多い。新商店街「キャッセン大船渡」やホテルができた場所は、海にも近く、被害が大きかった。旧市街地の街並みは想像もつかない。
大船渡は“3階建て”と感じる。海に近い230号、少し海抜が上がる国道45号、そのはるか上を三陸自動車道の高架が走る。45号沿いは津波の被害は比較的少なかったというが「高台に逃げろ」というシンプルな石碑も交差点に残る。歩き出して1時間強。加茂神社の階段を上ると、今の大船渡を見渡せた。
そこからは1歩ごとに海抜が上がる。163キロ右腕に縁のある場所も見ながら歩く。やがて分岐点。左に曲がれば、碁石海岸が有名な末崎地区へ。まっすぐ進めば陸前高田へつながる通岡(かよおか)峠。峠を選んだ。
登坂車線が1キロに及ぶような勾配だ。鹿やイノシシ、もしかしたら熊もいるかもしれない峠の国道。震災時、ここを歩いて越えた人たちがいたとの目撃談が複数ある。家路を急ぐためだったのだろうか。峠を越えるだけで1時間。寒い冬、衝撃の光景、連絡のつかない人は無事でいてくれているのか-。どんな思いで歩いたのだろう。
峠の頂上近くが市境になる。朗希は「地域によってノリとか接し方とか、違うと思うので。岩手県内でも。気仙地区でも、大船渡と高田でもちょっとあると思うので」と話したことがある。複雑な海岸線なる三陸沿岸。町と町は山や峠を隔てられることも多い。
空気感は実際に住まないと分からないけれど、今の陸前高田は他の町とは如実に違う。工事音が今も響く。平野部が少ない大船渡は工事の進行も割と早かったと聞く。陸前高田は違う。広い平野部の大半が高い津波に襲われたのだ。この8年間、訪れるたびに景色も道路も変わっていった。だからいまだに歩道整備も多い。警備員が「どうぞ」と笑顔で通してくれる。ありがとうございます。数時間ぶりの会話。ご時世柄、道ばたで誰かに話しかけるのは気が引ける。
オフに帰省し、陸前高田にも訪れた。「少しずつですけど変わっていくところを見て、やっぱり前に進んでることはすごくうれしいですし、僕自身ももっと前に進んでいけたらなと思います」。街の成長と自身の成長と重ねる-。前向きに捉えられるようになるまで、どれほどの時間がかかったのだろうか。
山を削り、荒野となった旧市街地に土を盛った。階段約40段分の高さの、新しい陸前高田ができた。球場も建設された。それらを右手に眺めて歩くと、道の駅陸前高田にたどり着く。奥にある「奇跡の一本松」には、歩き始めてちょうど4時間30分で着いた。ピンと背筋を張ったような立ち姿がりりしく、でも、いつもどこかもの悲しい。
新しい防潮堤の上から陸前高田を眺め、BRTで大船渡へ戻る。ホテルで知らぬ間に眠りに就き、午後5時の時報チャイム「イエスタデイ」は聴けなかった。「また来てよ」と涙ぐむ人の声色が、心に染みる。【ロッテ担当=金子真仁】








