03年春のセンバツを制した広陵のエースで元巨人の西村健太朗氏(36)は、高校時代に最も印象に残る試合に03年夏の甲子園の岩国との2回戦を挙げた。先発したが、8回 1/3 を10失点でKOされ、チームも7-12で敗戦。涙の裏側にあったのは何だったのか。その教訓はのちに、プロで生き抜く上での武器へと変わった。【久保賢吾】(全3030文字)

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甲子園に2年春のセンバツから4季連続で出場し、9勝を挙げた西村氏は、全12試合の中で一番思い出に残る試合に、意外な試合を挙げた。

「岩国戦ですね。初戦の東海大甲府に勝って、ホッとしたというか、次もいけるかなと。高校の時の生命線はインコースの真っすぐだったんですけど、それが決まれば大丈夫だろうと。何があったのか、今でもちょっと…」

甲子園最後の試合となる3年夏の2回戦、岩国戦。シーソーゲームの末、7-12で敗れた。先発したが、8回 1/3 を12安打10失点の乱調で、優勝候補で臨んだ夏は終わった。

1つの死球から、ゲームプランが狂った。1点リードの2回無死一塁。6番津山淳史に当て、動揺した。岩国打線は内角直球が武器の西村対策として、打席のラインギリギリ前に立ち、内角に投げにくくさせる中でわずかに制球ミスした。

「デッドボールから、インコースに投げにくくなってしまって。外ばかりに投げたんですけど、多少いいところに投げても、ラインのギリギリに立ってるんで、バットが届くんです」

2回に自らの悪送球も絡み、同点に追いつかれ、3回には津山の右中間への適時二塁打で勝ち越された。一時は逆転し、3点リードで迎えた7回。満塁から再び津山に走者一掃の適時三塁打を浴び、逆転された。まさかの2ケタ失点にチームは浮足立った。

「全員があれ? ってなったんです。僕は一番テンパってますし、(捕手の)白浜もそう。真っ白になったというか…。キャッチャーの子(津山)に、外の真っすぐを右中間に2本打たれた記憶しかないです」

次の試合が地元のPL学園-福井商戦で、超満員に膨れ上がったスタンドは揺れるように盛り上がった。のちに高校日本代表でともに戦ったPL学園の小窪哲也(現ロッテ)と、当時を思い返したことがある。

「僕らは『勝ったら、PLだ』って意識してましたし、PLも『広陵だ』って意識していたみたいで。そしたら、両チームともに負けてしまって…」

マウンドでぼうぜんとする中で打ち込まれたが、冷静に振り返れば、複数の要因が重なり合った結果だった。ただ、衝撃的な敗戦から学んだ教訓は、プロの世界で生き抜く上で大事な武器へと変わった。

「当てたからといって、外角一辺倒では抑えられないんだと。インコースに投げないとダメだったのに、あの時の僕は投げきれなくなった。だから、プロでは当てても勝負にいったし、経験はだいぶ生きてます」

高校時代は真っすぐ、カーブ、スライダーだったが、05年に就任した小谷正勝2軍投手コーチからの助言で、シュートを習得。球界屈指の「シュートの使い手」と名をはせ、強打者の懐を気後れせずに突いた。

甲子園では通算12試合に登板し、計1520球を投げた。球数制限がルール化され、複数投手制が叫ばれる現在と比較すれば、突出した数字である。

「2年の時は無我夢中でしたけど、ほとんど緊張してなかったですね。最初に、先輩から『楽しまないと損だよ』と言われて。球数制限もないですし、甲子園球場にスピードガンも出なかった。投げていて、苦しいとかはなかったです」

現在は、野球初心者もいるジャイアンツアカデミーのコーチを務めながら、毎年12月に行われる12球団ジュニアトーナメントでは、小学6年生のトップレベルの選手を率いて2年連続で監督として指揮を執る。

西村氏が今、子供たちに伝えるのは、何事にもチャレンジする心だった。

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「いろんなコーチから学んで、将来、活躍してほしいなと。大きな可能性を持ってると思うので、その可能性を広げてあげたいです。それが今後、プラスになってほしいなと。いろんなことをやって、感じてほしいなと思っています」

西村氏自身、小学4年からソフトボールを始めた。偶然、小学校で友達と遊んでいる時に、ソフトボールチームの監督から「一緒に遊ぼう」と誘われ、「やってみたら、楽しいなと思って、チームに入った」のがきっかけだった。

ジャイアンツアカデミーでは、各自のレベルに合ったアドバイスを意識しながら、飽きさせないように工夫する。守備やバッティングなどの決まった練習メニュー以外は、日々アレンジ。ウオーミングアップや動体操の時には、いつもと違った動きも取り入れながら、刺激を与える。

指導では、子供たちの動きを見ることを大事にし、的確な言葉で伝えることを心掛ける。元プロの目で見ながら、子供たちが秘める潜在能力、豊かな感性を最大限伸ばす方法を日々模索する。

「1回見ただけでは、何も言わないです。その1回が、たまたま悪い時だったかもしれないですし、何回か見て、変わってなかったら、こうなってるから、こう変えればと言うようにしています」

ソフトボールチームに所属した小学生の間は捕手を務めた。中学から所属したシニアチームの1年時に投手に転向。肩甲骨の柔らかさに気付いた指導者から、投手転向を薦められた。3年時にはエースで全国大会に出場。走者を背負った場面でのクイックモーションから投手の練習を始めたことも、その後の野球人生に大きく生きた。

自身の経験から、昨年のジャイアンツジュニアではポジションのコンバートにも取り組んだ。所属する少年野球チームでは捕手だった子を内野や外野にもトライさせながら「いいボールを投げてたんで」と投手でも起用した。

「もちろん、勝負事なんで優勝したいですけど、ここで終わってほしくないなという思いが強いです。いろんなことに挑戦して、新たな発見もしてほしいなと思っています」

昨年は大会を含め約3カ月間、ジャイアンツジュニアの選手を指導したが、自らも勉強させられる機会も多かった。「子どもって、こんなに上達するのが早いんだとビックリした」と振り返ったように、集合時は起用法を思案した子が、グングンと伸び、大会ではスタメンを奪取した。

「携わった子たちが、活躍してほしいなと思います。プロ野球選手になってくれればと思いますけど、去年で言えば、陸上の世界でも活躍できるんじゃないかなって子もいましたし、どんな世界でも活躍してくれればいいですね」

かつて、甲子園を沸かせた鉄腕は、未来の球児育成に全力を尽くしながら、教え子の活躍を心から願った。【久保賢吾】

◆西村健太朗(にしむら・けんたろう)1985年(昭60)5月10日、広島県府中市生まれ。広島中央シニア3年時にエースで全国大会出場。広陵では1年秋からエースで、02年春から4季連続で甲子園に出場し、3年春のセンバツで優勝した。03年ドラフト2巡目で巨人に入団。先発、中継ぎとフル回転し、12年から守護神を任され、13年には球団記録の42セーブで最多セーブを獲得。18年シーズン限りで現役を引退した。現在はジャイアンツアカデミーコーチを務める。プロ15年間で470試合に登板し、38勝34敗81セーブ、77ホールド、防御率3・12。現役時代は184センチ、94キロ。右投げ右打ち。