「江夏の21球」の大団円を、次打者席で見つめていたのが近鉄の左の好打者だった小川亨氏(76)だ。1979年(昭54)日本シリーズ第7戦、9回裏無死満塁という絶好機だったが、広島江夏豊の前に1死後スクイズ失敗で逸機。左対左を苦にしなかった小川氏は「江夏と勝負してみたかった」と残念がる。球史に残る名場面に、ほんの少しの続きがあれば…。保護司へと異色の転身を果たした今も、思いは尽きない。【取材・構成=高野勲】

小雨の中の熱戦は、最後の舞台を迎えようとしていた。79年11月4日、大阪球場。広島との日本シリーズ第7戦に「2番一塁」で先発出場していた小川は、1点を追う9回1死満塁で打席に入った1番打者の石渡茂を食い入るように見つめていた。1ストライクから近鉄は、スクイズを敢行。広島バッテリーに見破られ、三塁走者の藤瀬史朗は憤死した。

小川 私は江夏に対し、さほど苦手意識はなかったんです。もともと左投手は苦にならなかったし、江夏が南海(現ソフトバンク)にいた76、77年はそれなりに打っていたと思いますよ(計8打数2安打)。阪神にいたころの剛速球ならばともかく、球威は落ちていた。それにコントロールがよかったから、対応はできました。打者は荒れ球の方が嫌なものですから。

173センチの小柄な体を巧みに折り曲げ、左右に安打を積み重ねてきた。左投手の打ち方には、経験に裏付けられた理論があった。左打者には左腕の出どころが見えづらいため、どうしても早めに体を開きたくなる。そこをひたすら我慢して、内角高めに意識を合わせる。この近辺の速球をはじき返すことができれば、手の届く外の球にもとっさに対応できるというわけだ。

小川 江夏は私にはほとんど、外角へのスライダーやカーブで攻めてきました。体を開かず、センター前に運ぶイメージは鮮明に頭にありましたよ。日本シリーズといっても緊張はありませんでした。当時はパ・リーグの中継が少なく「たくさんの人にいいところを見せよう」と張り切っていましたから。

スクイズこそ外されたとはいえ、まだ2死二、三塁の好機は続いていた。石渡が塁にさえ出ていれば、小川に打席が回っていた。ところが石渡は三振に倒れ、試合終了。目の前ですべては終わった。

前年オフに近鉄は、ヤクルトからマニエルをトレードで獲得。打線に大きな幹が通った。驚異的なペースで本塁打を重ねた大砲に引っ張られ、近鉄は前期優勝を果たす。後期Vの阪急(現オリックス)とのプレーオフで3連勝し、近鉄は初のパ・リーグ制覇を遂げた。余勢を駆っての日本シリーズだった。

小川 思えば近鉄が、日本一に最も近づいた瞬間でしたね。結局そのままチームは日本シリーズで勝てませんでしたから。あそこで日本一になっていたら、チームも全国区になっていたかなあ。

宮崎商、立大ではホームラン打者として4番を張っていた。ところがプロで初めて体験したバッティングマシンに全くタイミングが合わない。バットを寝かせ、二握り短く持ち、姿勢を低く構えると鋭い打球が飛び始めた。打つだけではない。選球眼を高めるために、春季キャンプに目慣らしに来る審判と徹底した意見交換を行った。

小川 ブルペンで投げる投手に頼み、打席に入って投球を凝視しました。捕手の後ろにいる審判の方々に「今の球は高い」「ちょっと遠い」などと確認しながら、自分のストライクゾーンを確立していきました。

小川をはじめ個性あふれる選手を輩出した近鉄は、オリックスとの合併という形で球界から消えた。小川が積み重ねた1634安打は球団4位、そして出場1908試合は最多である。

小川 佐伯勇オーナーがご存命の頃は、バファローズのことを「ドラ息子だけど、かわいい」とよく言っていただきました。三原脩さんや西本幸雄さんといった名監督がおられ、常にのびのびやらせてもらいました。華はないにせよ、本当に愛着のあるチームでしたよ。(敬称略)

◆江夏の21球 79年の日本シリーズ第7戦、1点を追う近鉄は9回裏の攻撃を迎えた。マウンドには広島のリリーフエース江夏豊。先頭の羽田耕一が中前打を放ち、近鉄は代走に藤瀬史朗を起用する。次打者アーノルドのとき、藤瀬が二塁へ走り、送球がそれる間に三塁を陥れた。アーノルドが四球で歩き、続く平野光泰のときに代走吹石徳一が二盗。平野敬遠で無死満塁と、近鉄に絶好のサヨナラ機が訪れる。山口の代打佐々木恭介は三振で1死。続く石渡茂の2球目に、近鉄はスクイズを仕掛けた。これを察知した広島バッテリーが外角へ大きく外し、藤瀬は三本間でタッチアウト。石渡は空振り三振に倒れ、近鉄は日本一を逃した。

◆小川亨(おがわ・とおる)1945年(昭20)8月1日生まれ、宮崎県出身。宮崎商-立大を経て67年ドラフト3位で近鉄入り。75年の180連続打席無三振はプロ野球歴代3位で、パ・リーグでは97年イチロー(オリックス)216打席に次ぎ2位。80年の広島との日本シリーズでは全7試合で安打を放ち、敢闘賞。84年引退。現役通算1908試合、1634安打、162本塁打、633打点、打率2割8分4厘。引退後は近鉄、オリックスでコーチを歴任。現在は保護司のほか、少年野球「大阪狭山リトルシニア」監督。温厚な人柄から「モーやん」の愛称で親しまれた。現役時代は173センチ、73キロ。左投げ左打ち。

 

■03年から「保護司」として活動■

小川は03年から「保護司」としても活動している。保護司とは、刑務所から仮出所するなどして、保護観察処分となった対象者をサポートすることなどが主な任務だ。対象者と月に2度面談し、日々の暮らしについて様子を聞く。懲役刑に服し刑期が残り少なくなると、前もって身元引受人や保護観察所と打ち合わせを行う。あらかじめ支援の態勢を整えて、出所を待つという作業もある。大阪・富田林市とその周辺を受け持っている。前任者が定年を迎え、地域の信頼も厚い小川が後任を頼まれた。

小川 対象者に私の自宅へ来てもらったり、こちらから訪問したりして1回30分ほど話をします。会社員ならちゃんと仕事をしているか、学生ならきちんと学校へ行っているか確かめ、保護観察所に報告書を送ります。何があっても上から目線にならないよう、絶対に説教はしないよう心掛けています。

他人の世話をすることにかけては、年季が入っている。中学、高校時代には、ポリオ(小児まひ)のため足が不自由だった友人の佐藤俊彰さんをおぶって歩き、教室移動を助けていたことで知られる。心優しい元猛牛戦士は、昔も今も困難に向き合う人の頼もしい助っ人である。