プロ野球のスカウトを退いて8年になる。阪神で東日本統括スカウトを務めた菊地敏幸(71)は生まれ故郷の神奈川で暮らす。いまもタイガースの動向が気にかかっている。25年間のスカウト人生で多くの選手を送り込んできた。「30人は超えていますね。多い年はまとめて3人くらい。忙しいぞと。うれしいけどね。担当がないとさみしい」。藪恵壹、川尻哲郎、井川慶、赤星憲広、鳥谷敬…。愛着は消えない。(敬称略、全文2272文字)

秋になると、胸が焼きつく日々を思い出す。ドラフト会議はスカウトにとって集大成になる。自ら切り出した。「俊介、引退試合してもらって、本当によかった」。入団時の担当ではない。だが、ずっと心に引っかかってきた選手だった。「『阪神、出来レースでしょう』って他球団から言われましたから」。09年10月29日。都内のホテルで行われたドラフト会議は指名が進んでいった。1位二神一人、2位藤原正典、4位秋山拓巳…。要職だった菊地は円卓で5位の指名に入ろうとした。手元のリストに目を落とす。「藤川俊介 近畿大学 外野手」。なぜか、視界に飛び込んできた。

「藤川、残ってるじゃんって。私が推薦してしまったんです。実は『大失敗』だった」

藤川側は事前に4位以下の指名なら、内定先の社会人入りを公言していた。

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阪神もドラフト直前会議で、担当スカウトが藤川指名の条件を念入りに説明していた。だが、指名は進み、どんどん選手が消えていく。空気は張り詰め、切迫感がある。指名条件のことは、すっかり頭から抜け落ちていた。「私も会議で聞いて資料にも藤川の項目に矢印で『3位まで』と書いている。本当に申し訳なかった」。藤川は内定先との問題をクリアし、阪神に入団。俊足巧打のバイプレーヤーとして活躍した。

菊地ほどのベテランでも、心が締めつけられるのがドラフトだ。「2回くらい、胃に穴が空いたんです」。本番が近づくほど、異様な重圧がのしかかってくる。胃はキリキリし、病院で診察を受けた。胃潰瘍だった。「不安なんです。どういう選手が上がってくるか分からない。自分の担当でエッという選手が上がってくるとね」。04年以降はプロ志望届が導入され、提出していない選手は指名を受けられないルールになった。つまり、ドラフト指名されるすべての高校生と大学生が明確になり「隠し玉」がなくなった。だが、それ以前は、いくらアンテナを立てていても不安が消えなかった。逸材の見落としは幅広く情報を集めるスカウトにとって、痛恨のミスになる。責任感や独特の緊張感で追いつめられる。

人とのつながりが、人生を切り開く。菊地が阪神のスカウトに就いたのは89年、38歳だった。この道に導いてくれた、スカウトで元東京オリオンズ監督の田丸仁に「顔を売ることから始めなさい」と助言された。どこにでも出向き、なじみが増えていった。あるとき、首都大学野球2部のチームの監督に教えられた。「東京経済にちょっといい選手、いるんですよ。菊地さん、ご存じですか」。まったく知らなかった。「1回見ても、面白いかもしれないですよ」。勧められるまま、91年春、玉川大対東経大の公式戦を見に行った。リーグ2部。普通なら気にとめないカードだろう。

「駒沢球場のスタンドに上がっていった瞬間、外野でランニングしているのが2、3人いたんです。『コイツだ!』とね。ランニング姿だけで惚れたんです」

東京経済大の藪恵一(現恵壹)だった。マウンドでの立ち居振る舞いに、またうならされた。「性格的にプロに向いているか、向いていないか。投手はマウンドにいる雰囲気でだいたい分かる。藪は淡々としていた。本当の投手だと思った」。自分を大きく見せるため、虚勢を張る投手もいる。マウンドから2、3歩下りて、捕手からの返球を捕る。打者に闘志むき出しにする。「そういうのは、性格弱いなと。だいたい当たっている」。肝が据わった藪の姿は光っていた。

その日の試合後、監督にあいさつした。進路は社会人の朝日生命に決まっていた。菊地は食い下がる。「もし、他球団から連絡があって、本人がプロに行きたいってなれば、絶対に連絡をください」。監督を通じて菊地の存在は藪に伝わった。朝日生命入りするとまたも監督に伝えた。「2年間、預けます。順調に行ったら、ウチがいの一番に行きますよ」。藪とは話したこともない。恩師でもないのに、お願いした。グラウンドにもたびたび、足を運んだ。縁もあった。「グラウンドが町田だったんだ。家から車で30分くらい。時間ができたら、ポンと顔を出していた」。選手が希望球団を選べる逆指名制度が初めて導入された年だった。複数の球団がラブコールを送る。そのなかで振り向かせないといけない。歳月も熱意も重ね、93年ドラフト逆指名の1位入団にこぎ着けた。3年間、動向を追い続けた日々が実を結んだ。

藪の指名に成功後、指名あいさつで三重・南牟婁郡の実家を訪れた。両親にこんなことを言われた。「早くから見ていただいていて、阪神の菊地さんに応えないといけないでしょう。恵一が言っていた通りの方で安心しました。菊地さんにお預けしたら安心です」。スカウトは不安を抱えてプロに飛び込む選手の親代わりだ。誇らしく、背筋が伸びた。

人と心を切り結ぶ25年間だった。菊地は振り返る。「そんなに人と話すのは得意じゃない、好きじゃないと思ったけど、やってみたら好きなんだよ。人が好きなんだ。毎年、相手も変わっていくからね」。成功も失敗も、酸いも甘いも人生だ。選手と分かち合う、心を揺さぶられる日々だった。【酒井俊作】(敬称略)

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