日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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オリックスとの合併で消滅した近鉄バファローズの歴史は、西本抜きでは語れない。阪急で11シーズン指揮を執った後、1974年(昭49)から近鉄監督として低迷したチームを79、80年のリーグ優勝に導いた。

後に近鉄監督に就く梨田昌孝は、島根・浜田高3年だった71年、日本シリーズで阪急山田久志が巨人王貞治に逆転サヨナラ本塁打を浴びた実況を、授業中にイヤホンを耳にラジオで聞いていた。

名将西本と出会うのは運命だった。プロ2年目の73年オフ、球団事務所で広報の梶本豊治に羽田耕一と2人で連れていかれた別室にいたのが新監督だった。

「梨田です」とあいさつすると、西本は「そんなことわかっとる。お前らがいるからここ(近鉄)に来たんや」と返された。年俸150万円が据え置きの梨田に「3年で1000万円プレーヤーにしたるからな」とハッパをかけられる。

「高知宿毛キャンプで雪が降って打撃コーチの関口さんが『ボールが見えません』といっても、西本さんは知らん顔。『集中力が足らんからじゃ!』と怒鳴りつけた。選手は藤井寺球場の自主トレから両手でバシッ、バシッと殴られ、蹴られた。背が高いジャンボ仲根にはジャンプしてビンタを食らわせた。“昭和の頑固おやじ”だけど、この人を笑顔にして喜ばせたいと思った」

投手はエース鈴木啓示に、井本隆、太田幸司、村田辰美ら、野手は土井正博に、小川享、栗橋茂、若手の平野光泰、佐々木恭介らがそろった。当初は西本が手塩にかけた強い阪急に、はね返された。梨田は振り返る。

「すごい情熱で、絶対に甘え、妥協を許さない。移動の新幹線が遅れて夜中に帰阪しても翌日は練習だったし、試合後に帰りのバスに乗るのかと思ったら、体が切れてないと雨の中をベンチ前でダッシュするように言われた」

74年は4番土井正博を放出し、太平洋クラブライオンズの柳田豊、芝池博明と交換トレードが成立。“阪急キラー”の柳田は80年の対阪急が5勝1敗。不動の4番を放出してまで古巣阪急に対抗心を燃やした。

79年は、広岡ヤクルトのチャーリー・マニエルをトレードで補強した。優勝した年は顎に死球を受けて戦線離脱したが、“赤鬼”といわれる大砲は97試合に出場し、37本塁打を放って大貢献した。

負け犬根性のしみついた近鉄で2度のリーグ優勝も、2度とも古葉竹識が率いた広島に敗れた。81年10月4日の日生球場。近鉄の最終戦は偶然にも阪急が相手だった。

試合後、両軍の選手によって胴上げされた西本は「男冥利(みょうり)に尽きる」とあいさつした。監督通算20年、2665試合(1384勝1163敗118分け)に指揮をとった。

山田、鈴木、梨田、佐々木ら門下生が監督にも育った。近鉄最後の監督になった梨田は「うまく長所を伸ばし、短所に目をつむった」という。情熱を注ぎながら、育てながら勝つ名将だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、おわり)