西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏(日刊スポーツ評論家)が11日午前3時38分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。

90歳。高松市出身。通夜・告別式は家族で執り行った。現役時代は「怪童」と称された右のスラッガーで、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回を獲得。西鉄、日本ハム、阪神で監督を歴任するなど8球団で指導者を務め、若松勉、掛布雅之、岡田彰布、イチローらを育てた名伯楽だった。

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現役時代は怪童、指導者としては名伯楽の異名を取った中西さんが天国に旅立った。「最期は自宅で」という本人の意向で敏子夫人らの家族に見守られ、11日未明に息を引きとった。4月11日に90歳の“卒寿”を迎えたばかりで、突然の別れになった。

高松一(香川)で3度の甲子園出場を果たし、岡山東(現岡山東商)、福島商戦で2戦連続ランニング本塁打。戦前戦後を生き抜くのに必死の時代で、行商をしていた母親小浪さんの手打ちうどんが好物だった。

走攻守3拍子そろった三塁手の中西さんにとって、高校時代、手加減のない至近距離のキャッチボールや千本ノック、石清尾(いわせを)八幡宮(高松市)でのロードワークは「心身の苦行」という原点だ。打撃の基本は下半身と、身をもってたたき込まれた。

1952年(昭27)西鉄ライオンズに入団すると、高卒新人ながら開幕スタメンで出場。翌53年8月29日の大映戦で、林義一から放った平和台球場のバックスクリーンを越ええた推定飛距離160メートルの特大弾は、伝説として語り継がれる。

今でいうトリプルスリー(打率3割1分4厘、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成したのも53年だ。身長174センチと小柄だが俊敏で、無類の長打力を誇った。「何事においても苦しい時の体験が礎(いしずえ)になっていくものだ」。座右の銘は「何苦楚(なにくそ)」。庭の土の上で、はだしでバットを振った。手や足から血をにじませ、強靱(きょうじん)な下半身をつくった。

稲尾和久、豊田泰光らを擁した西鉄の中心選手だった中西さんは、当時の監督で「知将」と称された三原脩氏の指導を受けた。博多が本拠で無敵の“野武士軍団”は56年から3年連続日本一を達成。黄金時代を支え、新人王、首位打者2回、本塁打王5回、打点王3回のタイトルを獲得した。

現役終盤は左手首を痛めて苦しんだが、29歳の若さで監督を兼任し、63年にリーグ優勝を遂げた。現役引退後も日本ハムと阪神で監督を務めるなど球界に貢献。近鉄とオリックスでは西鉄時代の後輩、仰木彬監督をコーチとして支え、リーグ優勝、日本一を遂げた。

「ふとっさん」の愛称で指導者として8球団を渡り歩き、若松勉、掛布雅之、岡田彰布、イチローらを育て、外国人打者を伸ばす指導にも定評があった。永遠の名選手、名指導者として、野球界に残した功績は大きかった。【寺尾博和】

 

◆中西太(なかにし・ふとし)1933年(昭8)4月11日、香川県生まれ。高松一から52年に西鉄入団。同年新人王。本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度。62年から兼任監督となり、63年に西鉄最後の優勝。69年限りで現役引退、監督退任。現役通算1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、打率3割7厘。74~75年日本ハム監督。79年に阪神打撃コーチ、80年途中から81年に監督。その後、ヤクルト、近鉄、オリックスなどでコーチを務めた。現役時代は174センチ、93キロ。右投げ右打ち。