日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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仙台のデーゲームだった「楽天対日本ハム」の試合後、なじみの食事処に立ち寄ると、知人たちが東北にゆかりのある大リーガーの話題に花を咲かせていた。
「高校生だったダルビッシュ有が、うちの店にきたんだよ。彼の同級生のお姉ちゃんが、うちでアルバイトをしてたこともあった縁で連れてこられてね」
東北高の名監督、若生正広(故人)の導きで、大阪から仙台に野球留学した少年は、甲子園に出場し、日本ハムを経て、海を渡って、日米通算200勝の偉業を成し遂げるまでにのし上がった。
大記録を築いたジョージア州アトランタは、南北戦争が起きた小説「風と共に去りぬ」の舞台だった。ちょうどアトランタ五輪が開催されたシーズンもあったし、拙者にも思い出の地で感慨深い。
ダルビッシュの軌跡をたどると、09年に原辰徳が代表監督で率いたWBC大会はターニングポイントだった気がする。それまで表向きにはまったくメジャーリーグに興味を示していなかったからだ。
先発ダルビッシュのストッパー起用を決断したのはヘッド格の投手コーチだった山田久志だ。ロサンゼルスで準決勝を控えたドジャースタジアムでの練習日に本人に告げた。
しかし、ダルビッシュは「それはちょっと…」とすぐに受け入れることはなかったという。そして右中間の芝生の上で座り込んでしまった。
阪急ブレーブスで通算284勝をあげた名投手の山田の“ピッチャーで攻める”「継投」には定評があった。また日本を発つ前に靖国神社で必勝祈願に臨んでいた本人は、敗退すれば帰国しないつもりだった。
ダルビッシュに“ウルトラC”を告げた山田には「まずかったかな…」と一抹の不安がよぎったが、しばらくしてダルビッシュのほうから近づいてきた。
「ダルビッシュが『山田さん、シンカーってどうやって投げるんですか?』といってきたので、本人が踏ん切りをつけてくれたんだなと思ってほっとした覚えがあります」
その後、原から正式にリリーフ役を言い渡された右腕は、準決勝、決勝で見事に“守護神”を演じ、侍ジャパンを世界一に導くのだった。
「ダルビッシュとは『いい経験をさせてもらいました。こんな野球もあるんですね』と話した覚えがあります。また後々振り返った際に感じたのは、当時のメンバーが指導者になったときには、必ず同じような決断を迫られる瞬間がくるだろうと思ったものです」
世界の大舞台での熱投は、それまで受けたことのない高揚感で、心を揺さぶられたに違いなかった。今回通算200勝達成に触れた山田は「円熟した完成度の高い投手になった」と評した。
「最初はWBCでストッパーを託した際は戸惑っただろうが、よく引き受けてくれたし、男気を感じました。今も速い球を投げようと思えば投げられるが、力で押し込むパワーでなく、もともと興味のある変化球を織り交ぜながら、高い制球力と精巧な投球術で勝ち続けた。フォームも微妙に変えて工夫を凝らす。パドレスとの長期契約もプラスに働いたのだろう。言動、しぐさをみても大きく変わったし、人間的に成長したように思います。抜群の安定感でおとろえを感じない」
WBC大会から2年後の11年、ダルビッシュはポスティングシステム(入札制度)でメジャー移籍を果たした。あの“奇跡のリリーフ”がメジャーへの道しるべになったとしたら、あのとき目の前で起きたロサンゼルスの衝撃は、運命だったと言わざるを得ない。(敬称略)



