巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。
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長嶋監督へのあこがれでプロを目指した野球選手は星の数ほどいる。その中で、プロ入りした経緯から、長嶋監督の期待に応えようと懸命に厳しい世界に食らい付いた希代の打者が、銚子商の篠塚利夫(現和典=日刊スポーツ評論家)だった。
長嶋監督の監督1年目は6位。屈辱の最下位からまだ日が浅い11月18日、ドラフト会議(東京グランドホテル)で、篠塚は巨人1位指名。フロントの反対を押し切り、長嶋監督は「俺が責任を取る」と言って強行した1位指名だった。
長嶋監督の決意を後日知り、篠塚はとてつもない重圧を感じる。「そこまでして1位指名してくれた長嶋監督を裏切れない。恥をかかせてはいけない」。その一心から、夢中で始まったプロ野球人生だった。
翌76年、長嶋監督2年目は優勝。ルーキー篠塚の1軍出場はなかった。77年、巨人は優勝。2年目篠塚は1軍デビューを果たし18試合で5安打。78年はチームは2位、3年目の篠塚は3試合出場。そして79年。長嶋監督5年目は5位。4年目の篠塚は76試合で25安打。頭角を現し始めた秋、伝説の伊東キャンプ(10月28日~11月22日)があった。
伊東キャンプで篠塚は周囲の度肝を抜く行動を取る。キャンプ最終日、中畑らが篠塚に小声で言った。「しの、ミスターにもクロスカントリーを走ってくださいって言えよ」。練習の中でもっともきついクロスカントリーを、1カ月近くも走り続けていた伊東キャンプメンバーが、長嶋監督の秘蔵っ子とも言うべき篠塚に、仕掛けたいたずら心だった。
すると、篠塚は何の戸惑いも見せずに長嶋監督の元に歩みよると、前触れもなく言い放った。
篠塚 見ているだけじゃなくて一緒に走ってみろ!
天下のミスタープロ野球に、「走ってみろ」と言い放ち、それも腹の底から、いやとは言わせない迫力がこもっていた。周囲は息をのむ。しかし、篠塚は平然としており、言われた長嶋監督も「よおし」と言うなり、両手に「ぺっ」とつばをはいて、走りだした。
長嶋監督にあれだけの激しい言葉を浴びせた選手は、後にも先にも篠塚だけだろう。当時を振り返った篠塚は、これまた穏やかな目で懐かしむように言った。
篠塚 もう、キャンプも最後に来ていた。そこまで監督も選手も、とことんまで練習して、一緒に乗り越えてきた時間があった。今思えば、なんて言うのか、そういうことが許される雰囲気があったんじゃないかな。監督も選手と同じだったと思うよ。だから、すぐに「よおし」って、走りだしたし。一体感みたいなものがあったんだろうね。
この伝説のキャンプから1年。80年オフ、3位で優勝を逃した長嶋監督は有名な「男のけじめ」のせりふを吐き、ユニホームを脱ぐ。この年、プロ5年目ではじめて100試合を超える115試合で82安打の篠塚はショックを受けた。
電撃的に退団した長嶋監督に電話を入れ、思わず「僕も辞めます」と電話口で本心を伝えた。
篠塚 ドラフトの経緯があった。反対を押し切って1位指名してくれたのに、まだ何もしていなかった。それなのに監督がユニホームを脱ぐことになり、自分が情けなかった。頭のどこかに「自分も辞めなければ」という思いがあった。言った瞬間、「言っちゃった」と内心思った。そして監督に「分かった、辞めろ」と言われたら…、という思いがよぎった。
しかし、長嶋監督は篠塚の言葉を聞くやいなや「何を言ってんだ。俺がいなくても、伊東キャンプをやり抜いたお前は大成するから。外から応援しているから頑張れ」と、23歳の篠塚を励ましている。
篠塚は81年に打率3割5分7厘の高打率を残して藤田平(阪神)と激しい首位打者争いを繰り広げ、一気に巨人の不動の3番打者へと駆け上がった。84年に3割3分4厘で初の首位打者を獲得。87年にも正田(広島)と同率3割3分3厘で2度目の首位打者に輝いた。
篠塚 タイトルを取ることが長嶋監督への恩返しだとずっと思ってやっていた。それも1度じゃなく、2度取ろうと思っていた。2度取れば、本当に力があることを証明できる、そうすれば、長嶋監督が私を1位指名したことをみんなが認めてくれる。そう信じて必死だった。
現役引退直後でもっとも熱いミスターが、監督として素質にほれ、鍛え抜いたバッターが篠塚だった。そして、篠塚は「長嶋監督に恥をかかせてはいけない」の一心で、細い体で限界までバットを振った。
千葉のバットマン2人の師弟関係は、永久に続いていく。



