プレーバック日刊スポーツ! 過去の8月29日付紙面を振り返ります。2002年の1面(東京版)はDynamite! 吉田勝った!!ホイスを失神KO!!の記事でした。

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<Dynamite! 吉田秀彦(1回7分24秒 失神KO)ホイス・グレイシー>◇2002年8月28日◇東京・国立競技場◇観衆9万1190人

 吉田秀彦(32=吉田道場)がプロ格闘家デビューを快勝で飾った。グレイシー柔術の第一人者ホイス・グレイシー(35=ブラジル)を相手に試合開始から優位に闘いを進め、1ラウンド7分24秒、袖車(そでぐるま)で首を絞め上げて「失神KO」に仕留めた。ホイス側の抗議を受けて2週間の審議期間が設けられることになったが、51年ぶりの日本柔道VSグレイシー柔術の対決で、バルセロナ五輪78キロ級金メダリストが、9万人を超える観衆を興奮のうずに巻き込んだ。

 吉田が完ぺきな絞め技でホイスを仕留めた。7分すぎ、プロ初戦に向けて用意した絞め技を出した。ホイスの首に腕を巻きつけ、柔道着の右袖を左手で広げて頭に覆いかぶせて絞め上げた。「袖車。完ぺきだった。ホイスの力が抜けていくのは分かったのに(抗議は)後味悪い」。呼吸困難に陥ったホイスの危機を察したレフェリーが、試合を止めた。両手を突き出した五輪王者が、初めて9万人の歓声を浴びた。

 92年五輪、99年世界選手権と2度世界の頂点に立った。所属したのは名門の新日鉄、明大柔道部の監督も兼ねた。現役を退いても柔道の世界に身を置くことはできた。全日本強化コーチなどエリートコースを進むのも間違いなかった。だが、「おれは自由人。今さら会社のパソコンの前には座れない」。年明けに厳しい道に進むことを選んだ。

 日本柔道の最高峰、4月の全日本選手権は名誉ある選手宣誓を務めたが、14年ぶりの初戦敗退。「柔道で弱くなったから総合格闘技に出たとは、言われたくない」。悔しさをぶつつけるのはプロ初戦の舞台だった。高阪剛ら総合格闘技家との合同練習を重ね、専門コーチを招き打撃技を磨いた。中学、高校時代を過ごした都内にある柔道私塾、講道学舎にも足を運んだ。

 豊富な練習量で自信を得ていた。「柔道とはどういうものかを見てもらいたい」との予告通り、対戦ルール交渉で難航した打撃技を封印して柔道に撤した。「投げて寝技にもっていきたかったな。投げるところを見せたかった」と、得意の内また決められなかったことを悔しがった。4分すぎには柔道にはない柔術の足関節(アキレス腱固め)まで出した。圧勝だった。

 猛抗議を続けるホイス陣営を横目にリング上で晴れやかな表情でマイクを握った。直立したまま柔道界に対する感謝の言葉を並べ、「ホイスは参ったしていない、と言っていると思うけど、因縁の対決は続くんじゃないかと思います。ありがとうございました」。ちょっとだけプロらしい言葉に場内は沸いた。

 両者合意した試合ルールにレフェリーストップはなく、ホイス側は「無効試合」と主張し、石井和義総合プロデューサー(48)は「あらゆる角度から2週間審議したい」と話した。年内にはプロ第2戦が組まれる。再戦の可能性もある。吉田は「ホイスが納得するまでやりたい」と悠然と構えていた。

<古賀稔彦の目>

 予想した通り、吉田の楽勝だった。完全にパワーで圧倒した。決め技になった袖車は柔道技だが、相当の力量差がないと決まらないものだ。関節技を狙うホイスを上から攻めていた時から余裕が感じられた。格闘技は組んだ瞬間に相手の実力が分かるもの。全盛期のホイスのビデオで見たことがあるが、吉田と戦うレベルではないと思っていた。吉田もくみしやすさを感じていたはず。ホイスはパワーもテクニックも、ちょっと柔道をやった程度のもの。少し拍子抜けした。

 吉田にとってはこれからが正念場。もう柔道の代表じゃない。今後の闘いを変に柔道の普及と結びつけてほしくない。仕事として、つまりプロの格闘家として本腰を入れていくのなら、何も言うことはない。やるからには最強を目指さないといけない。どんなルールにも対応しなければいけないし、どんな選手の挑戦も受けなければいけない。もっと強い選手はたくさんいる。今回は打撃を受ける場面はなかったが、それを得意とする選手と当たった場合にどうなのか。傷つけられるだけでなく、傷つける恐怖も乗り越えていかなければいけない。新しい吉田秀彦を完成させるために取り組むのなら、陰ながら応援したい。(92年バルセロナ五輪金、89、91、95年世界選手権優勝)

<こんな人>

 吉田は週3回、柔道着を着たまま走ってくる子供たちを笑顔で迎える。「先生、こんにちは!」「はい、こんにちは。元気だったか? 脱いだ靴はきちんとそろえるんだぞ」。6月、東京・梅ケ丘に吉田道場を開いた。道場生は子供から大人まで約40人いる。約34畳と町道場としては決して広くはない、駅前の雑踏にまぎれて立つマンションの地下1階。ここに吉田の原点がうかがえる。

 父延行さん(59)が「柔道教室生徒募集」と書かれた新聞の折り込み広告に目を留めたのは、吉田が小4のころ。GKのポジションを好きになれなかったサッカー少年は「仲間と楽しく遊べる」柔道にのめり込んでいった。

 約20年が経過し、サッカーの隆盛とは逆に柔道の町道場と競技人口の減少は止まらない。「柔道、このままじゃ、やばいでしょ」。五輪金メダリストは「柔道家」と「道場の先生」として挑戦を続けていく。

※記録と表記は当時のもの