ジャイアント馬場さん(故人)のライバルで知られたブルーノ・サンマルチノ氏の死去を受け、親交があったプロレスラーが19日、故人をしのんだ。

 「人間発電所」の異名をとったサンマルチノ氏は1967年に初来日し、馬場さんと名勝負を繰り広げた。米国ではWWWF(現WWE)のヘビー級王者として、人気を博していた。

 現在、大日本プロレスの会長を務めるグレート小鹿(75)は「1967年ごろ、米国のナッシュビルでサンマルチノさんに声を掛けられたんだよ。『ハイ、ジャパニーズボーイ、ニューヨークに来ないか』。武者修行に行った米国で各地を回っている時で、こちらはまだ若手だったけど、当時、米国での人気はすさまじく、雲の上の存在だったから、声をかけられてビックリしたよ」と振り返る。穏和な素顔とは対照的に、レスラーとしてはカリスマ性があった。「ニコニコしていたけど、リングに向ける目は厳しかった。選手をスカウトするときの目は怖かったのを覚えていますよ」と話した。

 全日本プロレスの渕正信(64)は「馬場さんの大親友で、1990年5月の馬場さんの追悼大会に来日したのが最後だったかな。馬場さんが亡くなる前に、サンマルチノからキャデラックをプレゼントされて、馬場さんは新車を買っても、そのキャデラックを友情の証しとしてずっと所有していた」と思い出を語った。

 渕はサンマルチノ氏の息子デビッドのデビュー戦の相手も務めた。「外国人の中でも、ルー・テーズと並ぶ紳士だった。いつも笑顔を絶やさなかった。1975年だったか、オレが若手のころに、一緒に麻布十番のジムに行ったんだ。そこで、ベンチプレスをいきなり100キロから挙げた。オレらは20キロか30キロぐらいから始めていたのに。最後は200キロを挙げて、見物に来ていた人たちがビックリしてね。そのときもニコニコしながらバーベルを挙げていたね」と故人をしのんだ。