IWGPヘビー、同インターコンチネンタル2冠王者の内藤哲也(37)が挑戦者KENTA(38)を下し、2本のベルトを死守した。途中コーナーの金具に頭部をぶつけ、大出血。顔面血だらけになりながらも、ディスティーノで勝利をおさめた。

因縁が勃発したのは1月5日の東京ドーム大会。史上初の2冠をかけたタイトル戦でオカダ・カズチカに勝利。初のドームメインでの勝利を味わいながら「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」の大合唱をしている最中に乱入され、歓喜のセレモニーをぶち壊されていた。その借りを返し、大阪で初の大合唱を響かせた。

ピンチを何度も切り抜けた。試合はのらりくらりと時間稼ぎされるなど、KENTAにペースを握られた。途中、絞め技「GAMEOVER」で苦しめられたが何とかロープに左腕をかけエスケープ。さらにKENTAの仲間バレット・クラブのジェイ・ホワイトが乱入しリングに入ってきたが、ロスインゴの仲間BUSHI、高橋ヒロムが駆けつけ、ジェイを連れ出し窮地をまぬがれた。その後再びKENTAと1対1となると、go2sleepを狙われたが、うまく返して逆にディスティーをさく裂。流れをつかみかけたと思われたが、クッションが取られたコーナーに頭部をぶつけ、血まみれに。バレンティアをカウント2で返されたが、内藤は天井を指さし、勝利を確信。顔を血染めにしながらディスティーノを決め、3カウントを奪った。

KENTAとの初遭遇は14年3月のノアの有明大会。内藤は丸藤と組み、KENTA、ゼロワンの田中将斗組と対戦。その時も偶然のバッティングで流血。激しい攻撃を出し続け、30分引き分けに終わっていた。当時KENTAはノアのエース。ジュニア選手ながら、前年13年にはGHCヘビー級を奪取し、約1年間防衛。一方、当時の内藤はブレーク前夜。IWGPヘビー級王座にも届きそうで届かない立場だった。「張り手が強烈だったのを覚えていますね。KENTA選手はあの頃、ノアのトップ戦線にいた。体が小さいけど、しっかり結果を残していて、くやしいなと思ったのを覚えている」。

その後、内藤はメキシコ遠征を得て、制御不能の男として大ブレーク。一方のKENTAはWWE進出も思うような結果を残せないまま19年に契約解除。6月に新日マットに電撃登場し、8月にバレット・クラブに加入。東京ドームでの襲撃でヒールとしての知名度を上げた。

6年前とは違う状況で戦うこととなり、リング内外で挑発を続けてきたが、試合後に出てきたのはKENTAへの称賛の言葉だった。

「挑戦者としてどうなんだ、ってのはあったよ。東京ドームで負けておいて、乱入1発で伝説つくった2本のベルトに簡単に挑戦できるのかって。でも、おれ言ってるじゃん。思っていることは口に出さなきゃ、伝わんないんだよ。そういう意味じゃ、KENTA選手以外に(挑戦者に)ふさわしい選手はいなかったのかもしれないですね。他の新日本の選手は危機感をもったほうがいいよ。大バッシングを浴びても行動に出る。素晴らしいことだと思うよ」と、自分に挑戦してこない新日本の他の選手を批判した。

バックステージでも、血は止まらず、「うわー、やばいな。ふらふらしちゃうな。病院直行ですな」と言いながらも、翌日の一夜明け会見決行を要求した。