元プロレスラーの天龍源一郎(71)のアスリート人生の連載第6回は、プロレス界ただ1人のピンフォール勝ち。89年11月タッグマッチでジャイアント馬場から3カウントを奪った天龍はその後、94年1月に行われた新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木からもフォール勝ちを収めた。【取材・構成=松熊洋介】

89年11月、世界最強タッグリーグでスタン・ハンセンと組み、馬場、ラッシャー木村組と対戦。序盤に脇腹を痛めた馬場に対し、最後に得意技のパワーボムを浴びせて3カウントを奪った。普段から目をかけてもらい「受け身が取れるようになって、ケガしないようになって1人前になる」と言われ続けた師匠から初めて奪ったフォール勝ちを喜んだ。

90年に鶴田にシングルマッチで敗れたのを機にSWSに移籍したが、団体が解散。92年にWARを設立し「猪木さんと対戦したい」と嘆願書を提出するなど新日本との対抗戦に燃えた。93年1月東京ドーム大会で7年ぶりとなる長州とのシングルマッチが実現。当初は、勝利した方が猪木と対戦する予定だったが「左足中指の痛みがひどく、歩くのもやっとの状態」と猪木が断念した。それでも天龍は「すべてをぶつける」と長州を破った。その後も馳、藤波など実力者たちからシングルマッチで勝利を収めるなど、新日本のリングで躍動した。

94年1月の東京ドーム大会ではついにアントニオ猪木と初のシングルマッチが実現。「格闘技30周年の集大成にしてやろうと思った」という天龍は、6万2000人の大観衆の前で、宝刀パワーボムからのエビ固めで完全勝利を飾った。中盤、チョークスリーパーホールドで1度失神していた。長州に「何してるんだよ」と顔をたたかれ蘇生し、攻撃を仕掛け、逆転の3カウントを奪った。

天龍 技は次から次に休みなく出てきて引き出しが多かった。あの時、何で長州が俺の顔をたたいたのか、今も分からない。あのままだったら猪木さんの勝ちだった。

後日猪木から再戦を求められたが断ったという。実は失神の直前、指をつかまれて脱臼させられていた。

天龍 指が曲がっていて驚いたのを覚えている。再戦を断って怒られたが、あんな危険な人とは今でもやりたくない(笑い)。

プロレスの創始者、力道山に育てられ、日本のプロレス界を引っ張ってきた馬場さんと猪木を倒した。プロレス界で唯一の偉業だが「しょうもないやつにも負けている。一生背負っていると重荷になってくるのかな」と話す。温厚で背中で見せるタイプの馬場さんと、闘争心むき出しの猪木。対照的な2人の人柄の違いをこう語る。

天龍 馬場さんにはよく食事に連れて行ってもらったが、世間話ばかり。プロレスに関しても猪木さんとは正反対で、殺し合いや殴り合いのスポーツではないし、凜(りん)としていていいよ、という感じ。でも全員に対してではなく、警戒心は強かったかな。猪木さんの方がフランクだったかも。

その後もWJプロレス、ノア、ドラゴンゲートなど、さまざまな団体のリングで活躍し続けた天龍。地位を確立させ、後進の指導も行う中で、集大成を迎える。(つづく=第7回は引退まで)

 

◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう) 本名・嶋田源一郎。1950年(昭25)2月2日、福井・勝山市生まれ。63年12月に13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。64年初場所で初土俵を踏み、73年初場所で新入幕。幕内通算108勝132敗、最高位は前頭筆頭。76年10月に全日本入り。90年に離脱し、SWSに移籍。WARを経てフリーに。WJ、新日本、ノア、ハッスルなどにも参戦した。10年に天龍プロジェクト設立。15年11月に現役引退。獲得タイトルは、3冠ヘビー級、世界タッグ、IWGPヘビー級など多数。得意技はDDT、ラリアット、グーパンチなど。