元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが死去したことが1日、分かった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。89年には参議選で初当選した。近年は腰の手術に加えて心臓の難病「全身性アミロイドーシス」も患い、入退院を繰り返していた。

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◆アントニオ猪木といえば

▼闘魂 「力道山先生が亡くなる間際に、色紙に書いていた言葉。戦いを通じて自分を磨いていくこと」と猪木は言った。72年の新日本プロレスの旗揚げ。同年10月、「神様」カール・ゴッチを破り、団体として初のベルトを奪取した。その時から猪木に「燃える闘魂」の代名詞がついた。その後、アリやルスカと異種格闘技戦を敢行し、未開の分野を開拓し、「闘魂」の実績を積み上げた。

▼闘魂注入 講演会やイベントなどで猪木がファンに請われてビンタすること。過去に都内の予備校に特別講師として招かれ、講義の際に学生に「オレの腹に思い切りパンチを入れてみろ」とパンチを入れられたが、それが思いのほか効いて、思わず学生にビンタしてしまった。その学生から「ありがとうございました」と感謝されたことで、ファンへのサービスとして行うようになった。指導者の体罰が問題になったときも「ビンタして喜んでもらえるのはオレだけ」と笑っていた。

▼闘魂タオル 現役時代、リングに上がってガウンを脱ぐと、黒のパンツに黒のリングシューズ姿で、首に赤いタオルを巻いていた。赤いタオルは闘魂タオルと呼ばれ、猪木の代名詞に。引退後はスーツ姿に赤いストールを常に身に着けていた。

▼ストロングスタイル カール・ゴッチのレスリング技術の攻防を見せるスタイルと、力道山のケンカに近い戦いのすごみを見せるスタイルを融合した猪木流プロレスの神髄。ジャイアント馬場の王道プロレスに対抗して猪木が提唱した。この考え方が異種格闘技戦へとつながっていった。

▼イノキボンバイエ 猪木の入場曲。正式名称は「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」。かつて異種格闘技戦で戦ったムハマド・アリの伝記映画の挿入曲で、対戦を機にアリから猪木に贈られたものをアレンジした。ボンバイエはコンゴ民主共和国のリンガラ語「Boma ye」が語源で日本語訳すると「やっちまえ!」。アリの試合で現地の観衆が「アリ、ボンバイエ」と叫んで声援した。

▼「1、2、3、ダーッ!」 90年2月10日、新日本の東京ドーム大会。全日本も参加したビッグマッチの最後の締めとして猪木が行ったのが最初だといわれている。以降、猪木がリング上やイベントに登場すると、最後の締めとして行われるようになった。