吉永小百合(76)にとって映画「いのちの停車場」(成島出監督)は唯一無二の1本となった。未曽有のコロナ禍の中、昨年9月に撮影を開始して4日後に、共演の伊勢谷友介(44)が逮捕。同11月には製作総指揮の東映・岡田裕介会長(享年71)が急逝と激震が続いた。念願の医師を初めて演じるに当たり、向き合ったテーマは終末医療。自分ならどうしようと思い悩む中で考えた自身の老いと今を赤裸々に語った。

★伊勢谷逮捕

1959年(昭34)に「朝を呼ぶ口笛」で映画デビューしてから62年。122本目の「いのちの停車場」を、吉永はひと言で、こう評した。

「とにかく最初で最後…みたいな作品ですね」

昨年8月に吉永の主演が発表された時点で、世の中はコロナ禍で激変。リハーサルでフェースガードを着けるなど“新しい撮影様式”が広まりだしていたが、そこに敢然と挑戦した。

「それじゃテストじゃないじゃないですか。成島出監督が『やめましょう』って言ったんです。だから台本の読み合わせから、みんなPCR検査を受けて大丈夫だという中でマスクを外してやりました」

全員がPCR検査を受け、昨年9月4日に撮影を始めたが同8日に思いも寄らぬ事態が発生した。伊勢谷が、大麻取締法違反容疑で逮捕された。11日に設定されていた会見は予定通り開かれ、吉永は「何とか乗り越えて撮影現場に帰ってきて欲しい」と呼び掛けた。

「伊勢谷さんの演技は本当に素晴らしかった。(四肢がまひした社長役で)何としても元気になって、というエネルギーがあった。いろいろ大変だと思うけれど、あのエネルギーをご自身でも持って、もう1回、再生していただきたい」

伊勢谷の逮捕直後、吉永は製作総指揮の岡田会長と話し合い、出演シーンをカットせず撮影も予定通り行うと決めた。同会長は会見後、その内容を明かした。

岡田会長 本人の罪は罪だと思っているが、作品に罪はない。最初から(共通認識は)そうだった。お決めになるのは吉永さん…撮り直す気はない。

映画俳優として生きていこうと吉永が決意した80年「動乱」をプロデュースした岡田会長と出会って40年。自らを最も理解したプロデューサーとして絶大な信頼を寄せていた。初の医師役で新しいヒロイン像を作ろうと「いのちの停車場」を提案したのも岡田会長だったが、完成した映画を見ないまま同11月18日に急性大動脈解離で急逝した。

「タイトルには、天国に行く前に停車場に行って自分のことを考えるという意味合いもあった。会長は間違えた汽車に乗って、あっという間に天国へ行っちゃって『あれ、どうしたんだろう?』と思っているんじゃないかなと。多分、コロナの中で映画をやったり、決めなきゃならないことがたくさんあって、疲れていらしたんじゃないかなと」

1本の映画を作る中で、これほどの試練の連続は64年に及ぶ女優人生でも、ありえないのではないか。

「試練と感じることも出来ないくらい、次々と波が押し寄せる状況でしたね」

★次々と波が

劇中では、救命救急から故郷に戻り在宅医療に転じる女医を演じた。幼少期に体が弱かった吉永が、当時世話になった医師を演じたいと意識し出したのは、田宮二郎さんが主演した78年のドラマ「白い巨塔」が放送された頃だった。

「いろいろなドラマでドクターの切れ味の良さに憧れたんですけど、私が見ていた頃は女医さんを描いたものは少なかった。だから最先端治療をする女医さんをやってみたいと思った」

交通事故の重傷者に緊急手術を行う冒頭の場面の手さばきは鮮やかで力強い。

「(監修した)先生が目を血走らせて何度もやってみせて、私がやってという形で練習して。丸1日、あの場面をリハーサルして1カ月後に撮影…しっかり練習した意味では良かった」

女医が病に倒れた父から安楽死を求められ、悩む辺りから物語はサスペンス色を強める。安楽死を考え始めた女医の目は近年、吉永が演じた役には見られないほど無機質で、新機軸と言っても過言ではない。父役の田中泯(76)の演技に導かれる部分が多かった。

「自分だったら、どうするか…本当に、すごい選択をしなきゃならない。どう表現したらいいか、夜も眠れないくらい悩んで…そのまま画面に出せば、お客さんに伝わるんじゃないかと思って。田中さんを見ているとリアルすぎて、本当にお父さんで、こうなったら…と自分に、どんどん返ってきて、やることが出来た。本当に感謝しています」

★「ぼけたら」

今回ほど自分だったら? と考えて役作りをしたことは「なかった」と言う。その裏には89年に79歳で亡くなった父芳之さん、05年に90歳で亡くなった母和枝さんの死の記憶がある。

「父はのどにステーキを詰まらせ、集中治療室(ICU)に3カ月いて亡くなりました。気管切開して呼吸できるようにするかと医師が聞いてきて、私たちは早く楽にしてあげたいと思ったんだけど、しゃべられなくてもいいから少しでも一緒にいたいという母を尊重しました。母は病気になっても医者に行かず4年、1人暮らし。最後に2週間だけ入院して『早くお父さまのところに行きたい』と言ったことが『早くお母さんのところに行かせてくれないか』という(劇中の)父のセリフに投影された」

新聞報道で明記されるのを含め、年齢に触れられることを嫌ってきたが、終末医療を描いた作品の取材で、ぼけについて言及した。

「割と近くに、ぼけた人がいて…私たちは何も出来ないから見ていると、つらいし、もし自分がそうなったら周りの人は、すごいつらい思いをするだろうと思う。母が90歳まで一切、ぼけない人だったから、もし自分がぼけたら悔しいし、絶対に頭だけはビシッといきたいと思っています」

14年「ふしぎな岬の物語」でプロデューサーに初挑戦した際「せりふをしゃべれなくなる時は引退しかない」と語ったが、引き際について“決めごと”を作らない考えは変わらない。

「自分でプツッと辞めるかも知れないし、もう少しやれるかも知れないし。決めてはいないし、決めても公言はしたくない。『私、引退します』みたいじゃなく、何か良い形で引ければいいし…分かんないわね」

映画界と自らの今後を、どう見ているのか。

「広い画面で何かを感じながら、映画館で見る形は絶対に残って欲しい。そのために、もっと努力しなきゃいけないと思いますが、映画に関われるかどうか。プロデューサーは、もうダメ。ましてや監督は、やらない。俳優の他にやれることが今のところないわけだから。あとアクションはいけますよ、私は(笑い)」

停車場から旅立った、その先の吉永の生きる道は、映画俳優、ただ1つ…。【村上幸将】

▼吉永の父役で初共演の田中泯(76)

吉永さんというスターのお父さん役。本当に驚いた。同い年…ちょっと不安になって大丈夫ですかね? と成島監督に聞いたら「大丈夫、大丈夫」と。撮影期間、必死の思いでした。お父さん役ということは考えないようにしましたが、監督の言うように大丈夫だった。吉永さんが僕を、お父さんにしてくれたんだと思います。

◆吉永小百合(よしなが・さゆり)

本名岡田小百合。1945年(昭20)3月13日、東京都生まれ。57年ラジオドラマ「赤胴鈴之助」で芸能界デビュー。62年「キューポラのある街」でブルーリボン賞主演女優賞。同年「寒い朝」で歌手デビューし、橋幸夫とデュエットした「いつでも夢を」で日本レコード大賞受賞。00年「長崎ぶらぶら節」、05年「北の零年」などで日本アカデミー賞最優秀主演女優賞。86年から原爆詩の朗読をライフワークとして継続。

◆「いのちの停車場」

救命救急医白石咲和子(吉永)は、東京の大学病院を退職し、故郷金沢の診療所で再出発する。在宅医療に戸惑うも、仙川徹院長(西田敏行)訪問看護師星野麻世(広瀬すず)らに支えられ患者の生き方に向き合う。

(2021年5月30日本紙掲載)