プレーバック日刊スポーツ! 過去の12月26日付紙面を振り返ります。1993年の1面(東京版)は逸見政孝さん死去を報じています。

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 9月6日がん公表から111日、タレントで司会者の逸見政孝さんが25日午後0時47分、がん性悪液質のため東京・新宿区河田町の東京女子医大病院で死去した。48歳の若さだった。

 逸見さんは9月に腹部にあったがんを摘出する大手術を受け闘病を続けていたが、前夜(24日)から意識不明に陥っていた。病床でも最後まで現場復帰ヘの意欲を口にしていたが、かなえられなかった。戒名は誠實院温譽和顔政孝居士(じょうじついんおんよわげじょうこうこじ)。

 アナウンサーとして活躍した古巣のフジテレビを窓越しに望む東京女子医大病院6階の病室で、逸見さんは眠るように静かに息を引き取った。ピクリとも動かなくなった父親の体に、長男太郎さん(21)長女愛さん(18)の二人がしがみついて「パパ、パパ」と呼びかける。9月6日のがん告白会見から111日目。毎日病院に詰め二人三脚で頑張ってきた妻の晴恵さん(44)も、最愛の人の最期を涙ながらに見守った。

 前夜7時半から意識不明に陥ったあと、一時は小康状態に戻ったが、この日昼すぎに急に血圧が下がり、再び危険な状況になった。亡くなる前、逸見さんは「パパ、パパ」と呼びかける子供らの方を見て、「あー」「うー」と無意識のうちに声を出し、一筋の涙がほおをゆっくりと流れ落ちた。「元気になってもう一度仕事をするんだ」。生還を信じて病魔と闘ってきただけに、さぞ悔しい思いがあったのだろう。

 病室にはほかに父親政一さん(81)、所属プロの三木治社長(61)三木豊常務(52)、フジテレビの同期アナだった松倉悦郎さん(47)、親しいテレビ関係者など、10人が詰めた。22日に見舞った母親の福子さん(76)は、ショックから息子の最期に立ち会うのを見合わせた。前日深夜、21歳の誕生日を迎えた太郎さんを病室で皆で「おめでとう」と祝うと、こん睡状態の逸見さんの体がピクッと動いたという。

 9月6日にがん告白会見を行い、闘病生活に入った逸見さんは、同16日に13時間にわたる大手術を受けた。消化器外科の権威である羽生(はにゅう)富士夫教授(62)の執刀で、臓器の多くを摘出する現代医学の限界に挑んだものだった。術後10月末までは順調な回復を見せたが、11月中旬に腹部に新たなしこりが確認された。逸見さん本人には「大丈夫。腸がまだなじんでいないから」と説明されたが、恐れていたがんの再発が現実のものになっていた。

 同24日には羽生教授が三木社長を部屋に呼び、告げた。「逸見さんのがんに挑戦する強い意志に共鳴して日本の医学界の限界に挑んだが、現状ではがん細胞が腸内に再発しているようだ。逸見さんの体に再びメスを入れることはできない。大変残念だけれど、年を越せるかどうか分からない状態にある」。この最後通告は数日後、担当医の喜多村陽一医師(43)から晴恵夫人にも告げられた。

 11月上旬から行われた抗がん剤投与も取りやめたが、強い副作用とがんの進行の前に日に日に体力は衰弱に向かった。逸見さん本人も病状への不安を抱いていた様子が見えたが、自分の病気について周囲に尋ねることはなかった。「インタビュアーとして他人のことを聞くのを職業としていた人ですから。答えづらいことを聞いてもしようがないと、意識的にしなかったのでしょう」と三木常務。

 それでも、11月末、テレビ番組で「あと半年しか生きられず、1500万円あったら何に使いますか?」とやっていたのを見ながら、「6カ月でもいいから命の期限を切ってもらった方がいいなあ」とこぼした。また、1週間前から愛さんに「退院したら、すぐ大阪(故郷)に行こう。おいしいものをいっぱい食べられるから」と、しきりに話しかけていたという。

 逸見さんは病床では何度も「子供もまだ一人前じゃないから、まだまだ頑張らなければ」と話していた。遺言、遺書はなく、24日、晴恵さんに「もういいから帰れ」と言ったのが最後の言葉になった。

 ▼葬儀日程 通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午後1時から東京都新宿区南元町19の2、千日谷会堂で。喪主は妻晴恵(はるえ)さん。葬儀委員長は三木治・三木プロ社長。自宅は東京都世田谷区奥沢8の26の4。

 ◆がん性悪液質 がんが原因で貧血、浮腫(ふしゅ)、代謝異常などを引き起こし、回復が望めない全身衰弱の状態。

 ◆逸見政孝(いつみ・まさたか) 1945年(昭20)2月16日、大阪市生まれ。早稲田大学文学部演劇学科卒業。68年、フジテレビにアナウンサーとして入社。84年秋から幸田シャーミン(37)とコンビを組み「FNNスーパータイム」のメーンキャスターに。85年「夕やけニャンニャン」で司会の片岡鶴太郎(39)との掛け合いが受け、ヤングの間で人気者となる。88年4月、フリーに。89年(平元)4月からテレビ朝日「いつみの情報案内人素敵にドキュメント」のキャスターを担当したが、昨年秋、やらせが発覚し自ら降板した。91年からはビートたけし(46)とコンビのフジ「平成教育委員会」などレギュラー6本を抱える人気者に。妻晴恵さん(44)長男太郎さん(21)長女愛さん(18)の4人家族。

※記録と表記は当時のもの