「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだった、はしだのりひこさん(本名・端田宣彦、享年72)が今月2日、亡くなりました。

 音楽連載「歌っていいな」で、はしだ夫妻を取材したのは13年前の04年。当時、名曲「花嫁」は、08年に死去した妻の和子さんがモデルだったことを紙面にしました。

 以下は、夫婦愛のにじみ出る04年12月1日付紙面です。

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 夜汽車に乗って嫁ぐ女性の、純粋で一途な気持ちを歌った「花嫁」には実在のモデルがいた。はしだのりひこ(59)の妻和子さん(57)だ。

 二十数年前。歌手として全国を飛び回るはしだは、和子さんの待つ京都にほとんど戻れなかった。和子さんは月に1、2度、彼の仕事先を訪ねた。売れっ子のはしだの自由になる時間は、朝のわずかな時間だけ。それに合わせるため、夜行列車で行ったこともあった。「やっと彼に会えて、感激して『ワーッ』と泣きたいけど、泣いている時間さえもったいなかった」(和子さん)。

 そんな2人を、共通の友人である作詞家北山修が温かく見守った。北山は、はしだが託したメロディーに一晩で詞を付けた。「あっ、私のことが詞になってる」。和子さんはすぐに気付いた。世界中で3人しか知らない秘密だった。

 出会ったのは、はしだ17歳、和子さん15歳。京都の高校のクラブ夏合宿だった。はしだは2回停学になった問題児だったが「音楽のできる面白いやつ」として抜群の人気があった。そんな彼を一目見て、和子さんは恋に落ちた。その夜、初恋のときめきから眠れぬ夜を過ごしていると、窓の外からかすかな口笛の音が聞こえた。はしだだった。彼もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。

 「花嫁」が世に出た翌年の72年、2人は10年の交際を実らせて結婚した。「命かけて燃えた恋が結ばれる」。北山の詞が現実のものとなった。役所に届けを出しただけで、披露宴はしなかった。歌詞にある「花嫁衣装」は着られなかったが、和子さんは満足だった。

 それから32年。決して順風ばかりではなかった。和子さんは昨年、大腸がんで9時間に及ぶ大手術を受けた。今も抗がん剤を服用し、見えない病魔と闘っている。「真剣な恋をした人と、出会ってから今までずっと一緒にいられる。私がもし死んだら、この人は『私の骨をしばらく机の上に置いておくよっ』て。私の人生、それだけでいいかな! と思うんです」。和子さんの一途な気持ちは、夜行列車に揺られたころと変わっていない。

 今月5日は長男(32)の結婚式。京都で6代続くはしだ家に花嫁がやってくる。【松本久】