今月10日に渡哲也さんが亡くなりました。78歳でした。ニッカンスポーツコムでは、その実像に迫る連載「知られざる渡哲也」を配信中です。最終回は「土下座で示した誠意と覚悟」です。

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その決断は、とてつもなく早く、そして揺るぎなかった。

2003年(平15)8月12日午後2時すぎ。ドラマ「西部警察2003」の撮影現場で事故が起きた。現場は、名古屋市内の大型駐車場。若手刑事が乗るスポーツカーが事件現場に急行する場面のロケ撮影。3年前の大型オーディションで石原プロ入りした新人の池田努が、ハンドル操作を誤り、見物客5人に重軽傷を負わせてしまった。

都内の仕事場にいた渡さんの携帯電話が鳴った。事故が起きてしまったという報告だった。しばらくたって再び連絡があり、けが人の状態を知った。指示は簡潔で迷いもなかった。「撮影を中止して、ドラマの放送も取りやめる。最優先は被害に遭われた方々へのケアだ」。

「西部警察2003」は石原裕次郎さんの十七回忌と石原プロ創設40周年に合わせ、総力を結集して制作に乗り出した作品だった。既に撮影済みのスペシャルドラマに続き、10話で10億円以上の制作費を投じる予定だった。事故は第1話の撮影中に起きた。

名古屋市内で事故の対応に追われていた石原プロの小林正彦専務が、社長である渡さんの撮影中止の決定には同意したが、放送については「もう少し様子を見てから決めても」と具申した。渡さんは決して譲らなかった。「ダメだ。こちらで撮影の見学を許可しておいて、事故に巻き込んでしまった。その責任はとてつもなく重い」。納得した小林専務は、放送する予定だったテレビ朝日の関係者に翌朝、正式に協議の場を持てるように段取りした。のちに小林専務は、その時の渡さんについて「てこでも動かない。『道義的に筋が通らない。けじめがつかない』の一点張りでした」と明かした。

事故翌日早朝、名古屋に入った渡さんは、事故を起こした池田を連れ立って、けが人が入院する病院や自宅を回った。病室に入るなり、土下座して謝罪した。当時61歳。見舞いを受けたけが人によると「このたびは大変ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。心からおわびします」と床に額をつけて謝罪されたという。「やめてください」と声を掛けてもしばらく動かなかったという。退室する際には「何かありましたら、ここに連絡してください」と自分の携帯電話の番号を記した紙を手渡した。全ての責任は自分にあるという意思表示だった。

渡さんは前日夜、池田に電話すると、出るやいなや泣きだしたという。のちに渡さんは「そういう思いをさせてしまった自分の責任を強く感じました。心に大きな傷を背負わせてしまった」と話した。3年前、当初は消極的だった新人の加入を受け入れた時に「守り抜く」と誓った。だから一緒に土下座した。

テレビ朝日はドラマの制作、放送の中止を決定。石原プロは、けが人全員が退院するまで活動を自粛し、社員を駐在させて対応にあたった。

事故から3年後、当時のことを聞くと、ある思いがよぎっていたことを明かした。事故発生の一報を受けた直後、頭に浮かんだのは「裕次郎さんなら一体どうするだろうか」という思いだった。「ファンに対して、これほどの事故を起こしておいて、はたして、石原プロを存続させていいものなのか悩みました。裕次郎さんだったら、解散させるかも知れないと。出た答えは、人として、やるべきことを誠心誠意やる。それだけでした。迷いはなかったですね」。

「人は逆境に立たされた時にこそ、その真価が問われる」という言葉がある。「渡哲也」とは、はたしてどんな男だったのか。答えは、この事故に向き合ったその姿を見れば分かる。(おわり)【松田秀彦】