昨年亡くなった渡哲也さんは、石原プロ社長として何をしたいかと聞くたびに「『おおかみ少年』と言われても仕方がありませんが、映画を何としても作りたい」と答えた。

「石原プロ」はもともと石原裕次郎さんと一緒に映画を作りたいと思う仲間が集まった会社だった。昭和30年代の映画全盛期、量産態勢の中で大スターとなった裕次郎さんだが、用意された作品に主演するのではなく、自分が心を動かされた題材を映画化し、日本中の人を感動させたいと考えるようになった。その思いを具現化したのが「石原プロ」だった。

裕次郎さんの死去後、石原プロを率いることになった渡さんは2つの命題を背負うと決めた。「社員を路頭に迷わせない」と「映画製作」だった。石原プロに入ったのは、映画製作の失敗で苦しむ裕次郎さんを救うためだったがもう1つ理由があった。「夢を追い続ける男になりたい」。「裕次郎さんの映画への思いを聞くたび、大した思いもなく俳優を続けていた自分が刺激されました」。

しかし借金返済が最優先の状況で裕次郎さんは、リスクの高い「映画」ではなく、活路が開けた「テレビドラマ」を選択せざるを得なかった。渡さんにわびつつ、いつか来るその日を信じて新たな映画の構想を語り続けた。渡さんも裕次郎さんの思いを受け止め「必ず実現させましょう」と約束した。脚本作りも進めたが、道半ばで裕次郎さんは他界してしまった。

その後、石原プロはなかなか映画製作に踏み出せなかった。理由は簡単だ。「石原裕次郎」という看板があまりにも大きすぎた。

裕次郎さんの人間性に心酔し、裕次郎さんもまた全幅の信頼を寄せ、石原プロを経営面で支え続けた小林正彦専務は言った。「失敗はあり得ない。そこそこの成功でも納得できない。裕次郎さんの名を背負った我々は『大ヒット』が絶対の条件。名前は汚せない」。

国立競技場を使うなど、ド派手な法要イベントが象徴的だが、亡くなってもなお「スケールの大きさ」にこだわり続けた。「裕次郎さんがいかにすごかったのか、それを伝え続けるためには、スケールの大きさにはこだわり続けなければいけない」。

「呪縛」に渡さんも直面した。「会社として二の足を踏んでしまう。私に責任があるんですが、やっぱり恥ずかしい映画は作れないと思ってしまう」。また自分の体調も影響して石原プロの「たたみ方」も現実的に考え始めた。さまざまな映画製作の構想や企画が、浮かんでは消え、実現しない現実も受け止めていた。いわゆる「芸能プロ」として存続する選択肢もあったが、「映画製作会社」という原点に戻った。渡さんにほれ込んで石原プロ入りした舘ひろし、裕次郎さんにスカウトされた神田正輝も思いは一緒だった。

石原プロ解散。それは残された面々が決断した責任の取り方だった。【松田秀彦】