フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)がパーソナリティーを務める、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が、5日に6000回目の放送を迎える。1998年(平10)4月6日の放送開始から23年。生島の歩みを「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して連載します。

◇  ◇  ◇

94年4月から1年半、フジテレビの「おはよう!ナイスデイ」の司会をやりました。あの時は、随分といろいろなアイデアを出しました。同年8月1日深夜1時すぎに大事件が起きます。超売れっ子のビートたけしさんが、酒気帯びでミニバイクに乗って東京・新宿区の明治記念館から迎賓館へと抜ける、通称権太坂の右カーブで曲がりきれずに左ガードレールに激突。右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、右きょう骨複雑骨折の重傷を負います。

西新宿の東京医大病院に搬送されたんだけど、翌朝の事故現場や病院は中継車が出て大混乱。僕は東京医大病院から東海林のり子リポーターに、当時やっと普及し始めた携帯電話でのリポートを頼みました。フジテレビの人は、映像ありきのテレビマンですから「映像がないのは」とちゅうちょしていました。

だけど、僕はTBSでラジオからアナウンサーとして育ってきた人間です。映像がなくても、それを言葉で中継することは普通の事だと思っていたんです。それに東海林さんはラジオのニッポン放送のアナウンサー出身ですから、映像がないところでもリアルに事故から一夜明けの病院の様子をリポートしてくれました。

「ナイスデイ」は、4月に僕が司会になった時に、番組開始を午前8時半から8時に前倒しして2時間ワイドにしていました。主治医の病状説明会見を伝えるために30分間放送を延長して、それまでの最高の視聴率11・4%を記録しました。

当時、僕はテレビ朝日の「ミュージックステーション」でタモリさんと共演していたんです。それでフジテレビのスタジオから生放送の最中に、タモリさんの自宅に電話を入れてコメントを取ろうとしました。タモリさんの奥さんが電話に出て、ちゃんと受け答えしてくれてよかったけど、われながら無謀なことをしました。あの後、いろいろなところに謝りに行きました(笑い)。

当時の「ナイスデイ」のリポーターは、女性陣が多かったですね。16年に亡くなったおまきさんこと武藤まき子さん、今でもバリバリで不倫した芸能人ににらみをきかす平野早苗さん、そして横野レイコさんは元祖相撲ギャルとして大相撲もやれば、ジャニーズネタでもおなじみですね。

VTRのCMまたぎも、僕が提案しました。それまでは1つの事件でVTRを流して、それにコメントして終わり。だけど、VTRの途中でCMを入れちゃった。CM後にも興味がつなげるから、他のチャンネルに回させない。さらにVTRを見ながら、リポーターにあれこれ質問をぶつけていくスタイルにしたんです。VTRを作るスタッフは手間がかかって、大変だったと思います。でも、それだけ必死、フリーだから自分が司会をする番組作りにかけていたんです。

たけしさんは、9月27日に口元がゆがんだ顔面まひのまま退院会見をしました。「治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにするよ」という言葉に、芸人として、人としてのたけしさんのすごみを感じたものです。

「ナイスデイ」は1年半で交代になりました。親しい芸能関係者からは助け舟を出そうと言っていただいたこともありましたが、ワイドショーのメンタリティーに疲れてしまったこともあり、丁重にお断りいたしました。後で聞いた話ですが、他局のワイドショースタッフは「生島さんが居なくなって助かった」と快哉(かいさい)を叫んでいたそうですが‥(笑い)。辞めた直後は悔しさもありましたが、スタッフとともに新しい形の番組を作ることが出来た満足感がありました。

来週月曜日の5日には、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」も6000回を迎えます。「まぁ、いいか」といいかげんそうに見える僕ですが、お茶の間の視聴者・リスナーを大事にする精神は今でも全く変わりません。

(続く)

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。