ジャズのビッグバンド、原信夫とシャープス&フラッツを率いたサックス奏者の原信夫さんが21日午後9時48分、肺炎による呼吸不全のため都内の病院で死去した。94歳だった。

3日前の18日午後8時37分に、「ギターの神様」と言われた寺内タケシさんが器質化肺炎のため横浜市内の病院で亡くなった。82歳だった。

ジャズとグループサウンズ(GS)、サックスとギターという違ったジャンルの2人である。だが、歴史に「もし」があったなら、昭和歌謡史に残る美空ひばりさんの名曲「真赤な太陽」は、2人によって、違った運命をたどっていたかもしれないのだ。

原さんは50~60年代に、江利チエミさんと美空ひばりさんのバックバンドを務めていた。チエミさんはジャズなど洋楽を中心に、ひばりさんは歌謡曲的な世界で、いずれも国民的な人気を得ていた。

そんな時、原さんはひばりさんの母でプロデューサー的存在だった喜美枝さんから、ひばりさんの芸能生活20周年記念アルバム用に作曲を依頼された。

原さんはすでに作曲していた1曲を提供することに決めた。それが後にひばりさんが歌って大ヒットする「真赤な太陽」の原曲だった。時代はGSブームのただ中だった。原さんは親しくしていた同じサックス奏者の井上忠夫氏に編曲を依頼した。井上氏は人気絶頂のGSグループ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのメンバーだった。美空ひばりさんと同じ日本コロムビアに所属していた。

GSブームを色濃く反映した「真赤な太陽」(作曲・原信夫、作詞・吉岡治、編曲・井上忠夫)は20周年記念アルバム用に完成。喜美枝さんが絶賛し、ひばりさんの新境地として67年5月25日にシングルカットされ、大ヒットした。

実は原さんは「真赤な太陽」の原曲の提供候補に、江利チエミさんも考えていた。原さん本人が後に述懐している。チエミさんはキングレコード所属。もし同じようにGSムードを反映させようとするなら、編曲は当時のキングレコードの人気グループ、寺内タケシとバニーズの寺内タケシに白羽の矢が立っていた可能性が高かったという。

歴史に「もし」はない。喜美枝さんが原さんに作曲を依頼した時点で、歌唱はひばりさんに決まっていた。寺内タケシさんと原信夫さんが相次いでお亡くなりになったことで思う「もし」である。【笹森文彦】