<紙面復刻:1995年7月16日(この道

 500人の証言188・山口百恵その4)>

 【証言548】

 百恵・友和コンビのグリコCMを撮り続けた映画監督の大林宣彦氏(57)

 「引退の直後、パーティーで百恵ちゃんにカラオケで歌ってもらおうとした。ところが、1週間前まで歌っていた自分の歌を、彼女は歌詞カードを見ないと歌えなかった。芸能人としての自分を何の未練もなく捨てたな、と」。

 俳優三浦友和(43)との出会いは、デビュー1年後の1974年(昭49)6月から放映された「グリコ

 セシルチョコレート」のCM撮影だった。同年12月公開、9億7000万円の配収を上げた初主演作「伊豆の踊子」(西河克己監督)でも共演した。79年(昭54)の「天使を誘惑」まで、共演映画は11本を数えた。

 【証言】

 共演映画を5本撮った西河克己監督

 「2、3作撮っていくうちに、息がぴったりしてきた。“エデンの海”(76年4月公開)で友和が出なかった時、百恵のノリが明らかに悪かった」。

 【証言】

 大林氏

 「CMを撮り始めて2~3年ごろから“カット”の後も百恵の視線が友和から離れなくなった。シラケていることがカッコよかった時代に、昔のような背筋のきりりと伸びた青年が友和君だった。百恵は見抜いたんですね」。

 女子マラソンがブームになり、女性の自立が高らかに叫ばれたのが、百恵引退の80年(昭55)だった。引退に対し「女性の地位は10年前に逆戻りした」「ただの女にすぎなかった」の声も飛んだ。自伝「蒼い時」(集英社)で、百恵は書いた。「家庭は、女がごくさりげなく、それでいて自分の世界をはっきりと確立することのできる唯一の場所なのではないだろうか」。

 【証言】

 メディア文化論の法政大学稲増龍夫教授

 「女性の社会進出という現象とはある意味で正反対だが、温かい家庭を築くことを幸せに感じる女性たちの、生き方の理想像になった。くしくも80年にデビューしたのが、結婚して不倫もして、芸能活動もする松田聖子。対照的で、象徴的だ」。

 三浦百恵さんは、84年(昭59)4月に長男祐太朗君を、翌85年(昭60)11月には次男貴大君を出産した。87年(昭62)5月に都内国立市に新居を構え、今36歳。

 92年、NHKが「紅白歌合戦」にゲスト出演を要請したが、断られた。

 【証言】

 「スタ誕」プロデューサーだった池田文雄氏

 「2年前に百恵の電リク番組をTBSでやった時、百恵を尊敬しているゲストの中森明菜に“百恵を呼べばよかったね”と言うと、明菜はきっぱりと“出てこないから、いいんです”と言った」。

 出てこないから、いい。

 その美意識を日本はとうに忘れた。百恵ファンは別だ。が引退から15年、姿を見せないにもかかわらず、この間にCDが12枚発売され、総売上枚数は170万枚を突破。92年2月発売の「百恵復活」は1週間で5万枚を売った。

 【証言】

 さだまさし氏(43)

 「絶対出てこないだろうと思う。でもお互いに年いって、欲も得もなくなったころ、そっと一緒に歌ってみたい気がする。今の彼女自身の“秋桜”を聴いてみたい」。

 伝説の7年半は、その後の15年で輝きを逆に増した。

 【証言】

 大林氏

 「結局、基本的に彼女は芸能人ではなかったのだと思う。幸せを目指して駆け上がっていく、一人の少女だったのだ、と」。

 ■急な坂道駆けのぼったら、今も海が見えるでしょうか。

 ここは横須賀■

 【特別取材班】

 (この項終わり)※年齢、肩書きは当時のものです。

 [2010年3月30日6時55分]ソーシャルブックマーク