きのう5月15日は沖縄の本土復帰から50年の日。それに先がけて4月28日、私は東海テレビの取材で沖縄県最北端、国頭村の辺戸岬にいた。70年前の1952年4月28日は沖縄にとって「屈辱の日」だった。

この年発効したサンフランシスコ講和条約によって、北緯27度線を挟んで奄美群島はいち早く本土復帰。取り残された沖縄は、それからなお20年間アメリカの統治下に置かれた。

だけど条約は奄美群島最南端、鹿児島県与論島と沖縄最北端、国頭村の人々まで分断したわけではない。海上では漁船が手を振り合い、陸では折に触れてかがり火をたいて心を通わせあってきた。

そんなつらい日々と復帰の喜びが、ないまぜになった4・28。私は、復帰の年に生まれて“復帰っ子”と呼ばれ、いま復帰前と復帰後の沖縄を考える「結(ゆい)515」の会の代表をしている比嘉盛也さん(当然、今年50歳)と一緒に記念式典を取材させてもらった。

「50」と書かれたそろいのポロシャツ姿で与論と国頭の児童も参加した式では物々交換の時代を思い出して、この日、与論からヤギ2頭、国頭からはやんばるの森の薪(まき)が贈られたと知らされると会場に笑顔が広がった。

あいさつに立った比嘉さんが会場に向かって「ウチナーンチュ(沖縄の人)は好きですか?」と問いかけると、与論の子どもも一緒になって割れんばかりの拍手。比嘉さんは「結515」の結は「結どぅ宝(つながりこそ宝)」の沖縄の思いを表したものだという。その気持ちはこの先、本土こそが持ち続けたい。2時間の式の間、2機のオスプレイが上空を飛んだ会場でそんな思いにかられるのだった。