昨年7月8日、安倍晋三元首相が参院選中に銃撃されて命を落としてから、まもなく1年となる。今月8日には、昨年葬儀が営まれた東京・増上寺で一周忌法要が行われ、議員による焼香や一般からの献花も予定されている。

安倍氏亡き後の日本政界では、安倍氏がトップを務めた安倍派を中心に、「重しが取れた」(自民党関係者)ことによる大小さまざまな混乱も起きてきた。新しい会長が決まらないまま1年近くが経過した安倍派では、一周忌を1つの区切りとして新しい体制づくりを打ち出すかどうか、結論を出す最終段階にある。

1強政治の象徴となった安倍氏の後を継ぐとなれば、比べられたり、受ける重圧も避けられない。当初、昨年9月の国葬までに選ぶといわれながらもまとまらず、昨年末も見送られた。今年に入っても意見がまとまらず結果的に見送られ、今年5月16日の派閥パーティーでのお披露目も実現しなかった。だからこそ一周忌を1つの節目として、何らかの結論を出すことが急がれている側面もある。

関係者を取材すると、特定の1人ではなく、いわゆる「5人衆」(松野博一官房長官、高木毅国対委員長、西村康稔経産相、萩生田光一政調会長、世耕弘成参院幹事長)と呼ばれる幹部5人による集団指導体制を取りながら、少しずつ変化させていく選択肢が有力だという。ただ、それぞれのリーダーを支持する議員がいる上に、5人を選ぶことに納得しない勢力もあることから、全体の了解を得られるかは不透明という。

「これは1つの権力争いだ。ひとつでも手法や順番を間違えば、この1年かろうじて保たれてきた結束が崩れかねない」と、関係者の1人は話す。ナーバスな局面なのだ。

安倍氏の会長時代は、党の派閥の中で所属人数が最も多い「最大派閥」が売りだったが、分裂危機の分岐点といわれる100人まで人数が増えた上、誰もが納得する求心力ある会長候補がいないことから、誰を選んでも角が立ってしまう。「1人に決められない問題」が常態化する結果になってしまった。

「安倍派」はメディアなどが使う名称で、「清和政策研究会(清和会)」という正式名称がある。現在、岸田文雄首相が会長を務める岸田派の「宏池会」とともに、自民党草創期からの歴史を持つ。もし現体制に変化があった場合、「安倍派」という名前はどうなるのか。長く永田町と関わる関係者に聞くと「本人が亡くなっているのに『安倍派』とするのはおかしい状態だった。派閥自体も、いつかは安倍氏から脱却しなければいけない」としながらも「今の状況では、新しい会長が1人選ばれるのは難しい。かつての安倍氏のように資金集めもできて力もあるような人物は、いま表に出ている名前には見当たらない。特定の人物に決まらない限りは『清和会(旧安倍派)』みたいな感じにならざるを得ないのではないか」と話す。

かつて、宏池会会長だった大平正芳首相が参院選のさなかに病気で急死し、続いて首相に就任した鈴木善幸氏が派閥を継いだ時にも、誰が次の派閥を担うかでさまざまな声があったとされる。「一致結束箱弁当」といわれた旧田中派と比べる形で、宏池会の派閥会合では和洋中3種類の弁当が出されたことから「食べる弁当もバラバラ」と言われることもあったという。宏池会はその後、分裂した。

清和会も過去に分裂した歴史がある。「安倍派」となってからは、安倍氏の求心力のもとで結束してきた組織だけに、まとめ役がいなくなった以上、全員が結束するのは難しいと、悲観的な声も聞いた。

後任体制に言及するなど今も強い影響力を持ち、「事実上の安倍派会長」などといわれる森喜朗元首相は、昨年5月の安倍派パーティーで、「数を誇っちゃいけない。あと何人で100人になる、なんてやっている時がいちばん危ない」「数があればなんでもできると思ったところから崩壊が始まる」と、今となっては暗示のような言葉を口にしていた。

清和政策研究会のホームページには、「清和会」の名前の由来について「1979年、派閥争いが勢いを増す時代に、創設者福田赳夫元首相が『政清人和(まつりごと清ければ人おのずから和す)』、清廉な政治は人民を穏やかにするという意味を込め『清和会』と命名した」とある。政治の世界では絶対的に必要とされる「数の力」が、強みからリスク要因に変わる時もあるという、思いも寄らなかった現実を前に、安倍派は「1人に決められない問題」に、どんな結論を導くのだろう。【中山知子】(ニッカンスポーツ・コム/社会コラム「取材備忘録」)