経済指標はすでにバブル景気の終わりを告げていたが、人々はまだ華やかな時代の余韻に浸っていた。そんな平成の7年目。年初を襲った大震災が、浮かれ気分を吹き飛ばした。1年の世相を漢字1字で表す「今年の漢字」は、この年に始まり、今や年末の風物詩となった。この間に選ばれた24文字は、平成がどんな時代だったと示しているのだろうか。毎年、揮毫(きごう)を続けてきた京都・清水寺の森清範貫主(78)に聞いた。
京都・清水寺の森貫主は、その日の朝のことを、今も覚えている。
午前6時の開門を前に、本堂でのお勤めの準備にかかっていた、まさにその時。ぐらり、ぐらりと立っていられないほどの激しい揺れに襲われた。揺れは十数秒だったとされるが、果てしなく長く感じられた-。
1995年(平7)1月17日午前5時46分、兵庫県南部を中心に大きな被害をもたらした阪神・淡路大震災だった。
「今年の漢字」は、この年に始まった。主催する日本漢字能力検定協会(京都市)は、暮れの発表イベントで、森貫主に揮毫を依頼した。森貫主が、清水寺・奥の院で墨痕鮮やかに描き出したのは「震」。6000人以上の命を奪った大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。まさに「人々が『震』え上がった」平成7年を言い当てた1字だった。
以後、「今年の漢字」は年末恒例となり、18年で24回を数えた。森貫主は「1字1字、思い出深いなぁ、とつくづく思っとります。とりわけ『震』は最初の年で、忘れられない大災害、大事件があった。『震』の字をみると、当時の心境を今もまざまざと思い出します」と話す。
-豪雨、地震など自然災害が多発した18年は「災」が選ばれた
森貫主 「災」のかんむりは「川」を表します。川と火、つまり水害と火事です。人類にとって水と火はとても大切ですが、扱いを誤ると大事になる。「災」は、新潟中越地震などがあった04年も選ばれています。改めて、災害に対する備えを日ごろ心がけようという教訓にしたいものです。
-「偽」「毒」「倒」などネガティブな意味を持つ字が、しばしば選ばれる
森貫主 食品偽装が相次いだ07年の「偽」。「人の行いは偽りである」と。厳しいですな。しかし、偽りは人の心から出てくる。それではいかん。しっかりと自らの心と向き合いなさい、という戒めでもあるのです。
消費税が17年ぶりに引き上げられた14年の「税」。税金上がって嫌や、とみんなが思ったことでしょう。ノ木偏は「みのり」、つくりの「兌」は「抜き取る」という意味がある。1年間の「みのり」から一部を抜き取るのが「税」というわけです。しかし、税はよい社会をみんなで作っていく原動力にもなる。だから「ちから」とも読む。古代中国で生まれ、何千年たった今も世界で15億人が使っているとされる漢字には、深く広い意味があります。人は「負」の世界を見がちですが、漢字から学ぶべきことが多くあります。
-個人的に最も思い出深い文字は
森貫主 東日本大震災が起きた11年の「絆」です。未曽有の大災害を前に、みんなで力を合わせ、助け合うことの大切さを痛感させられた年でした。私は、法話で全国を回りますが、震災被災地の岩手県釜石市を訪れた時は、何も話せませんでした。泣いてる被災者の手を握って「つらいね」「悲しいね」と声をかけるだけでした。その心を共有することが大切なのです。
-事前の予想が当たったことは
森貫主 最初は、協会が発表前に教えてくれました。しかし、知人から「今年の漢字は何や」と聞かれて、知ってるのに「知らん」というのは心苦しい。当日まで教えてくれるな、とお願いしました。予想が当たったのは、プロ野球・阪神タイガースがリーグ優勝した03年の「虎」です。あの年、関西はたいへんなことになっとりましたからな。えぇ、私も阪神ファンです。
-平成の30年を漢字1字で表すと
森貫主 「和」ですかな。大きな事件も災害もありましたが、戦後七十余年、日本は戦争をしなかった。平成の30年間、昭和の不戦の誓いを守った。当然のことのようで、これは大変なことです。次がどんな時代になるか分かりませんが、「和」を引き継いでいく。そんな世の中であってほしいと思います。
「今年の漢字」は1995年(平7)、日本漢字能力検定協会が、「1人でも多く漢字を学び、親しむきっかけに」と始めた。「いい字1字」をもじって、12月12日を「漢字の日」と定め、原則として毎年、この日に発表される。「今年の漢字」は協会の登録商標となっている。
協会ホームページのほか、18年ははがきや全国1500カ所以上に設置した応募箱で募った。学校や企業など団体による応募もある。これまで、最も応募が多かったのは、11年の49万6997通。過去最多の6万1000通余りを集めて「絆」が選ばれた。最も割合が高かったのは、04年の「災」で、約9万1000通のうち、約2万1000通で22・84%を占めた。複数回選ばれたのは、「金」が00、12、16年の3度。いずれも五輪開催年だった。「災」が04、18年の2度。
揮毫に使う毛筆は、広島県熊野町産の牛耳兼毫筆。長さ11・5センチの牛の耳に生える毛を使う。清水寺の森清範・貫主によると、保水性が高く、2、3筆目でも墨が薄れない特長がある。紙は福井県産の越前和紙で、縦1・5メートル、横1・3メートル。【秋山惣一郎】