北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさん(55)の父親で、拉致被害者家族会の代表を務めた横田滋(よこた・しげる)さんが5日午後2時57分、老衰のため死去した。87歳だった。1977年(昭52)11月、当時中学1年のめぐみさんは新潟市の中学から帰宅途中に北朝鮮の工作員に拉致された。以来43年、滋さんは再会を願い続けてきたが、かなわなかった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会を予定している。

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「めぐみちゃん、早く会いたいです」。病床からの願いがかなうことなく滋さんが逝った。

滋さんとともに救出活動の先頭に立ってきた妻の早紀江さん(84)は「本日午後2時57分、老衰のため、息を引き取りました。北朝鮮に拉致されためぐみを取り戻すために主人と二人で頑張ってきましたが、主人はめぐみに会えることなく力尽き、今は気持ちの整理がつかない状態です」と悲痛なコメントを出した。

めぐみさんは77年11月15日午後6時半ごろ、新潟市立寄居中バドミントン部の練習を終え、友人2人と一緒に校門を出た後、自宅まであと約200メートルのところで姿が確認されたのを最後に行方不明となった。

20年後の97年、脱北した工作員の証言で北朝鮮に拉致されたことが判明。滋さんは各地の被害者家族とともに「拉致被害者家族会」を結成し、初代代表になった。北朝鮮は02年9月、日朝首脳会談で拉致を認めたが、めぐみさんら8人は「死亡した」と説明。滋さんは「信じることができない」と号泣した。04年に遺骨として提供された骨はDNA鑑定で別人のものと判明している。

滋さんの誕生日は11月14日。めぐみさんは拉致前日、滋さんの45歳の誕生日に「これからはおしゃれに気を付けてね」と「くし」をプレゼントした。そのくしを大切に、滋さんは全国を飛び回り、1400回を超える講演をし、救出を訴える署名活動を続けてきた。

05年に血小板が減って出血しやすくなる難病「血栓性血小板減少性紫斑病」を患い、07年には胆のうの摘出手術を受けた。07年11月、10年にわたって務めてきた家族会代表を退任したが、活動は続け、16年3月まで講演に立った。

18年4月、パーキンソン症候群のため、川崎市内の病院に入院した。手足、言葉が不自由になり、胃ろうの処置も受けたが、早紀江さんによると、めぐみさんと会う日を信じてリハビリに励んでいた。病室には<1>小学校の運動会でのめぐみさん<2>佐渡への家族旅行<3>そして北朝鮮で撮影された大人になってコート姿で立つめぐみさん-3枚の写真が置かれていた。

 

【横田滋さんの歩み】

▼1932年(昭7)11月 徳島県で生まれる。北海道にも暮らし、日本銀行入行

▼62年(昭37)10月 早紀江さんと結婚

▼64年(昭38)10月 長女めぐみさんが誕生

▼77年(昭52)11月 新潟支店勤務の時、中学1年だっためぐみさんがバトミントン部の練習後、帰宅中に失跡。夫妻は捜索願を出し、捜索活動を始めた

▼97年(平9)2月 北朝鮮による拉致が表面化。3月には家族会が結成され、滋さんが代表に就任。救出活動を始める

▼02年(平14)9月 小泉純一郎首相が初訪朝。金正日総書記が拉致を認め謝罪した。北朝鮮側は、めぐみさんは93年に死亡したと説明。同10月には、曽我ひとみさんら拉致被害者5人が帰国した

▼04年(平16)11月 北朝鮮がめぐみさんの「遺骨」と説明した骨などを政府代表団が持ち帰ったが、鑑定では別人のDNA型が検出

▼07年(平19)11月 滋さんは体調不良を理由に家族会代表を退任したが、全国で集会参加や講演を続けた

▼14年(平26)3月 夫妻はモンゴルを訪れ、めぐみさんの娘キム・ウンギョンさんと面会

▼16年(平28)2月 北朝鮮が拉致再調査の特別調査委員会を解体すると表明

▼17年(平29)11月 早紀江さんら家族会が米トランプ大統領と面会したが、滋さんは参加しなかった

▼18年(平30)4月 滋さんが入院し、療養生活に

▼20年(令2)2月 映画「めぐみへの誓い」の製作会見が行われたが、滋さんと早紀江さんは欠席

▼同6月 滋さんが死去。めぐみさんは現在55歳