ケシの実をつかった個性的なあんぱんで知られるペストリーショップ「築地木村家」が6月17日で閉店することが2日分かった。創業は1910年(明43)なので111年目の決断となった。木造店舗の老朽化とコロナ禍により先行きが見えないことが閉店の理由だ。パン工房の巨星が、あと半月で終焉(しゅうえん)を迎える。

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閉店の直接の理由は関東大震災で建て直した木造3階の店の老朽化とコロナの影響が絡んでくる。4代目窯元(かまもと)の内田秀司社長(55)は「大きな地震が発生したら、この建物は崩れてしまうかもしれない。誰かを傷つける凶器といってもいい。2カ月後には解体に入ります」と話し「一時期は建て替えも考えたのですが、このコロナ禍でどうやって営業していくか。将来の展望が見えない。まだ余力のある今のうちに店をたたみます」と苦しい胸の内を話した。

創業は1910年(明43)。日露戦争(1904年)で勝利を収め、国内は勢いに乗っていた。創業者の内田永吉さんは福岡・小倉から一獲千金を夢見て上京し有名パン店の銀座木村屋の「3年頑張ればのれん分けさせる」とのうたい文句に人生を賭けた。永吉さんはもともと会計士でもうかる副業としてパンの製造販売をしていたが、いつのまにかパンを焼く「ペストリーショップ」が本業へと逆転してしまった。

店の看板では「1908」だが公式には1910年が創業年。「実際にはよく分からない。本業転換の誤差ですね」(秀司社長)。3代目・豊二さんのときに拡大路線をとり、兄栄一さんを店長にして、永田町の衆院議員会館にも支店を出した。栄一さんの葬儀には常連客だった小泉純一郎元首相も弔問に訪れていた。

豊二さんは子どもがいなかったこともあり、おいの秀司社長を跡継ぎとして養子入りさせた。秀司社長は甘いあんぱんにこだわりながらカレーパンに目をつけ、6年前から販売。甘辛の両方のパンが人気となり1日の客が600人超を記録したこともあったという。

今後はパン製造はいったん休止する。秀司社長は「究極のあんぱんを2年ぐらいかけて考案したい。茶道で出せる逸品をつくりたい」と閉店してなお、あんぱん道を追い求めると語った。【寺沢卓】