ロシアによるウクライナ侵攻に対して、多くの国で抗議活動が起きている。そんな中「反戦歌」があらためてクローズアップされている。日本でもSMAPが約17年前に発表した「Triangle」が話題となった。過去にはベトナム戦争の反戦フォークソングが世界を動かした。日本にも数多くの反戦歌がある。女王・美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」など代表的な反戦歌を振り返る。

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SMAPが05年に発表した「Triangle」が、検索サイトで1位になるなど注目された。大国の英雄であろうと戦火の少女と命の尊さは同じ、と歌う。同曲は同年と10年(メドレー)にNHK紅白歌合戦の大トリで歌われている。

MISIA(43)はロシアの侵攻が始まった直後の2月末、全国ツアーで世界的な反戦歌「花はどこへ行った」をアンコールで歌った。「平和の願いを込めて、この歌を歌いたいと思います」と話した。

反戦歌は人々の心に訴え、世界をも動かす力を持つ。日本にもベトナム戦争に反対したフォークソングなど数多くの反戦歌がある。歌謡界の女王と呼ばれた国民的歌手の美空ひばりさん(享年52)も反戦歌を歌っている。しかも自身で数ある持ち歌の中からベスト10の1曲に選び「みなさんにぜひ愛していただきたい歌」と話している。

「一本の鉛筆」(歌詞は別掲)である。同曲は74年(昭49)8月9日の第1回広島平和音楽祭で初披露された。「世界に平和を発信する音楽祭に」という趣旨に、ひばりさんは出演を快諾。音楽祭で歌う新曲が制作された。作詞は音楽祭の総合演出を担当する映画監督で脚本家の松山善三氏が担当した。黒沢明監督の映画音楽などで知られる佐藤勝氏が、作曲と編曲を手掛けた。

<歌詞>一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

反戦と平和への思いが込められた。

音楽祭の当日は猛暑だった。会場の広島県立体育館で、ひばりさんは用具置き場のような控室で早くから待機した。冷房設備はなく、氷柱が置かれていた。関係者が「出番まで冷房のある別の部屋で」と促すと、ひばりさんはこう言った。

「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」

あの時とは原爆が広島市上空でさく裂した8月6日午前8時15分を指す。ひばりさんは申し出を丁重に断り、動かなかった。

新曲の披露を前に、ひばりさんは「昭和12年5月29日生まれ。本名・加藤和枝。私は横浜で生まれました。戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません」と話した。実は8歳の誕生日の1945年(昭20)5月29日に横浜大空襲があった。1万人近くが亡くなった。必死に防空壕(ごう)に逃げ込んだ。観客は分からなかっただろうが、生年月日と出身地を語ることで、自らの戦争体験を示唆したのだろう。そして「私にとりまして、これから永久に残る大切な歌でございます」と語り、歌った。

ひばりさんの長男でひばりプロダクション社長の加藤和也氏(50)は「とても恐ろしい経験をしたという話は何度も聞きました。この曲は露骨に戦争反対を訴えているのではなく、1人の女性の視点から歌われています。だから分かりやすく、スーッと聞けるのでしょう。母のこの歌が再び注目されることには、複雑な思いもあります」。

ひばりさんは14年後の88年8月に再び広島平和音楽祭に出演した。大腿(だいたい)骨壊死(えし)と肝臓病で入退院を繰り返していた。出番以外は持ち込んだベッドに横になり、点滴を打った。それでも「一本の鉛筆」をいつもの通り歌い終えると、「来てよかった」と喜んだという。翌年の6月24日、ひばりさんは亡くなった。

「一本の鉛筆」はSNSが発達した現代では、時代錯誤かもしれない。だがロシアの国営放送で反戦を命懸けで訴えた女性は「NO WAR」と手書きした紙を掲げた。情報がたやすく遮断される今だからこそ、「一本の鉛筆」「一枚のザラ紙」の力を信じたい。

 「一本の鉛筆」

    作詞 松山善三  作曲 佐藤 勝

 

1 あなたに 聞いてもらいたい

あなたに 読んでもらいたい

あなたに 歌ってもらいたい

あなたに 信じてもらいたい

一本の鉛筆があれば

私は あなたへの愛を書く

一本の鉛筆があれば

戦争はいやだと 私は書く

 

2 あなたに 愛をおくりたい

あなたに 夢をおくりたい

あなたに 春をおくりたい

あなたに 世界をおくりたい

一枚のザラ紙があれば

私は 子供が欲しいと書く

一枚のザラ紙があれば

あなたを返してと 私は書く

一本の鉛筆があれば

八月六日の朝と書く

一本の鉛筆があれば

人間のいのちと 私は書く

(JASRAC 出 2202344-201)

 

◆反戦歌 抗議の歌の総称をプロテストソングといい、反戦歌はその1つ。他にも国家権力、原発、核兵器、貧困などを対象としたプロテストソングが存在する。反戦と反核などリンクしているケースも多い。日本では社会風刺や皮肉を込めた江戸中期の狂歌や明治の自由民権運動で政情や時局を風刺した演説歌がルーツ。演説歌は演歌の原点ともいわれる。

アメリカの反戦歌はベトナム戦争で多数生まれた。「風に吹かれて」(ボブ・ディラン)「平和を我らに」(ジョン・レノン&ヨーコ・オノ)「What A Wonderful World」(ルイ・アームストロング)などが日本でもよく知られている。

■世界で最も有名な反戦歌「花はどこへ行った」

世界でもっとも有名な反戦歌は、MISIAがアンコールで歌った「花はどこへ行った」(55年)といわれる。米フォーク歌手ピート・シガーの作品。

「花はどこへ行った」「女の子が摘んだ」「女の子はどこへ行った」「嫁に行った」「夫はどこへ行った」「戦場へ行き墓に入った」「墓は花に覆われた」「花はどうした」「女の子が摘んだ」と元に戻る。繰り返される戦争の悲劇を表現している。ピーター・ポール&マリーや女優マレーネ・ディートリヒらがカバーした。日本でも数多くのミュージシャンがカバーしている。

実はこの曲は、ロシアのノーベル賞作家ミハイル・ショーロホフ氏の小説「静かなドン」に書かれたコサックの子守歌に影響を受けて書かれたという。小説の舞台の1つが今、戦火にあるウクライナなのである。皮肉な現実である。

◆笹森文彦(ささもり・ふみひこ)北海道札幌市生まれ。83年入社。主に文化社会部で音楽担当。インタビューでは正確を期すためICレコーダー(録音機)を使用するが、必ずノートにも相手の言葉を書く。メモすることで、どの答えが重要なのか、テープを頼らなくても分かるからだ。過去、何本のボールペンなどを取材に使っただろうか。PCではなく、その1本があるから、新聞記者は記事を書けると思っている。