戦後間もない1950年代、各局競って制作し、「君の名は」など放送史に残る名作、傑作も生まれたラジオドラマ。今や忘れられた存在だが、レギュラーや特番で放送を続けているのが、TOKYO FMだ。中には17年も続く人気番組もあるという。なぜ今、ラジオドラマなのか。ラジオドラマは復活するのか。

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TOKYO FMのラジオドラマ「NISSAN あ、安部礼司 BEYOND THE AVERAGE」(日曜午後5時~、38局ネット)が4月、放送開始17年目に突入、総放送回数838回(1日時点)のロングランヒットを続けている。東京・神保町の中堅企業「大日本ジェネラル」に勤務するごくごく普通のサラリーマン、安部礼司の会社や家庭での日常を描く。ある世代のリスナーにとって懐かしい1980年代のアイドル歌謡や90年代のJ-POPをはさみながら、笑いあり涙ありで進行する1話完結1時間のコメディーだ。

放送が始まった06年当時、ラジオドラマをレギュラー放送している民放局は、ほぼなかった。昭和も遠くなった00年代に平凡なサラリーマンを主人公に据え、FM局ではめったに流れない懐メロ歌謡を流す新番組には「なぜ今?」感があった。

だが、番組立ち上げから関わる堀内貴之・総合プロデューサーは「逆にラジオドラマがほとんどないからこそやる、という気持ちでした。IT起業家やヒルズ族がもてはやされた時代だったので、あえて『出世はしないが、昼休みには話しかけたくなる』平均的な会社員を主人公にした」と狙いを語る。放送を重ねるにつれ、安部礼司はリスナーの共感を得ていく。古い大衆音楽も、主人公の心象風景とマッチした選曲が奏功し、ドラマを盛り上げた。

出演者、制作陣が番組の成功を確信したのは、放送外でのイベントだという。放送開始から3年が過ぎた09年、東京・渋谷で、安部礼司と「キラキラ系OL」倉橋優との結婚披露宴を開催した。人気スターが登場するわけでもない、ラジオドラマのイベントに2000人が集まった。以後、安部礼司の地方出張のついでに、という体裁で全国のネット局を回るなど大小さまざまなイベントを開催。ファンとの距離を縮めながら、新規リスナーの拡大にもつなげた。15年には8000人を集めて日本武道館公演を果たした。

安部礼司の声を担当する俳優の小林タカ鹿は「公開イベントでは、リスナーの熱量の高さに驚かされます。中には目をつぶって、僕たちの声だけで安部礼司の世界に浸っている人もいる。ラジオドラマのイベントならではの空間でしょう」と言う。

コロナ禍の20年に開催したオンラインイベントは、13万人が視聴。Tシャツ、マグカップといったグッズや脚本集などの関連書籍が発売されている。過去にはテレビドラマやアニメ化もされた。4月からはウェブ漫画「あ、安部礼司です。」がスタートした。

堀内プロデューサーは「ラジオドラマというジャンルを盛り上げようとは考えてないし、コンテンツビジネスで収益を上げようというつもりもない。スポンサーの日産自動車からの注文は『とにかくおもしろい安部礼司を聴かせてくれ』というだけ。僕たちも、日曜夕方の放送を大切に、おもしろい番組を作ろうと思っています」と話している。【秋山惣一郎】

■ノウハウが蓄積されているからこそ制作可能

TOKYO FM(TFM)は「安部礼司」のほかにも特別番組でラジオドラマを年3、4本のペースでコンスタントに制作している。NHKを除く地上波では、ラジオドラマがほぼ姿を消す中、異例の編成だ。

同局の内藤博志・編成制作局長は「ドラマ制作に、特に力を入れているということではありません」とした上で「放送で伝えたいことを表現するために最適だと考えれば、ドラマという手法を選ぶ、ということです、例えば報道特番で、現場の臨場感や空気感、人間の感情を重層的に表現するためにドラマが有効な場合がある。取材した事実や専門家のコメントにドラマパートを加えることで、伝えたいことがより伝わりやすくなります」と話す。

内藤局長によると、ドラマ制作は、脚本家や声優のブッキングなど、トークと音楽で構成する番組に比べて、制作費、制作日数は何倍にものぼる。何より、音だけで場面を設定し、状況を描写する演出の技術や知識、経験といったノウハウが必要だ。TFMには、ドラマ制作にたけたベテランが在籍しており、ノウハウが若手に蓄積、継承され、制作体制を維持できているから可能だという。

20年には、リリー・フランキー脚本、伊藤沙莉ら出演の「『東京』2021春 サヤカとトモヤ~君の牛、再び~」、21年は國村隼主演の「銀座の神様~小林亜星との日々」など話題作を世に問うている。

ドラマ作りのノウハウという「カード」は、配信にも生かされている。昨年は、ビジネスホテルと組んで、ホテルの客室内で聴けるドラマを制作。TFMが運営する音声コンテンツプラットフォーム「AuDee(オーディー)」で配信した。全編広告的なドラマ仕立てのコンテンツは、制作費は高いが訴求力も強いため、スポンサー企業からの引き合いも多いという。

内藤局長は「ラジオドラマ制作は、誰でも簡単にできるものではないが、設定や状況を自由に作れて、リスナーの想像力を喚起し、感情を動かすことができる。原始的なようですが、とてもおもしろい手法だ。有効に使っていきたい」と話している。

■ラジコやポッドキャストがラジオドラマの将来変えるか~茅原良平・日大芸術学部放送学科准教授

ラジオドラマは、1925年(大14)のラジオ放送開始当初から、主要コンテンツとして位置づけられていました。本放送初日の「ラヂオ劇」こそ、舞台演劇をそのまま電波に乗せたものでしたが、翌週には、日本初のオリジナルラジオドラマ「大尉の娘」が放送されています。放送を重ねるにつれ、セリフ回しや劇伴、効果音の作り方も次第に洗練されていきます。戦後はNHKの「君の名は」(52年)が大ヒット。映画化、小説化され、今で言うメディアミックスの先駆けになります。民放でも「少年探偵団」(56年、ニッポン放送)、「赤胴鈴之助」(57年、ラジオ東京=現TBSラジオ)など子供向けの作品が人気を博します。戦後間もない50年代が、ラジオドラマの全盛期でした。

60~70年代には、多重録音など録音技術の革新やシンセサイザーなど電子機器の登場で、新しい音作りが試みられます。寺山修司や谷川俊太郎、坂本龍一といった気鋭の文化人がドラマ制作に関わり、意欲的、実験的な創作を追求する動きもありました。しかし、お茶の間の主役は、すでにテレビに移っていました。ラジオドラマで新しい音の表現を開拓しようという意欲が、放送界から失われていきます。NHKは今もレギュラーでラジオドラマを放送していますが、ほとんどの民放局は、商業ベースには乗らない作品をコンクール用に年1本作るかどうか、といった状況が長く続いています。

しかし、ラジコやポッドキャストなど配信で音声コンテンツを聴く文化が、ラジオドラマの将来を変えるかもしれません。ラジオは長い間、オンタイムの放送を「ながら聴き」するメディアで、じっくり聴かないと楽しめないドラマやドキュメンタリーには向かないと考えられてきました。でも、タイムフリーや配信なら好きな時に何度でもじっくり聴いて楽しむことができます。

日芸放送学科では、今も学生にラジオドラマ制作を課しています。「ここは宇宙です」と言えば、そこが瞬時に宇宙になる。鳥を主人公にすれば、空中から人間界を見下ろす視点で描ける。映像で作ることが難しい場面や状況を作れるラジオドラマは、学生の発想力、表現力、制作力を磨くのに適した手段だと考えているからです。映像であふれる時代だからこそ、これからの放送に携わる人たちには、音だけで表現するラジオドラマの可能性に挑戦して欲しいと思っています。