秋篠宮妃紀子さまが11日、59歳の誕生日を迎え、ご夫婦の近況や、ご家族についての心境をつづったコメントが同日、ご夫妻の近影とともに、宮内庁公式サイトに公開された。「戦後80年」を迎え、あらためて平和への思いも長文で寄せた。
ご近影では、秋篠宮邸でブルーの洋装の紀子さまが、紺ジャケット姿の秋篠宮さまと並んで笑顔を見せる写真や、互いに目を合わせて語りあう様子などを公開。8月に訪れた広島・原爆養護ホーム舟入むつみ園の入所者から贈られた折り鶴を見つめるカットも公開された。また、コメントは、宮内記者会の質問に文書で答える形が取られた。
紀子さまは、悠仁さまの成年式が無事執り行われたことについて、関係者に感謝。また、戦後80年を迎え、あらためて平和を願う心境や、災害の被災地へのお見舞いの言葉も記した。紀子さまは「この一年の間に、さまざまな印象に残る出来事や出会いがありました」と、戦後80年、トルコと日本との長年の交流、大阪・関西万博での出会い、そして金沢市から奥能登、珠洲市を訪ねたことなど、心に残ったことをあげた。
「戦後80年にあたって」との質問では、「今年は、戦後80年にあたって催された展覧会、映画の上映会、舞台などを訪れ、関係者からお話を伺うと共に、残された写真や映像、遺品、本やアートなどを通して学び、考え、日本のこと、世界のことにより目を向ける糸口になりました」と回想。「7月下旬に、宮さまとご一緒に広島市を訪れた折には、広島市の高校3年生が高校生平和大使としてノーベル平和賞授賞式に参列し現地ノルウェーの高校生と交流したことや、被爆された曽祖父母方のことを語ってくれました。また、当時の白黒写真をAIによってカラー化し、戦争を体験した人たちからの聞き取りに基づいて補正し『記憶の色』を蘇らせる活動をしている方や、国際的な平和活動に将来携わるためのプログラムに参加している高校生など若い人たちともお話をすることが出来ました」と振り返った。
続けて「また8月に佳子と広島市を訪ねたときに、姉妹都市であるホノルル市の子どもたちが演じたミュージカルを鑑賞しました。被爆して12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんの物語を描いたこの舞台は、子どもたちの歌声と踊りで作り上げられ、平和を願う強いメッセージが会場に広がっていくのが感じられました」とつづった。
紀子さまは「このように若い世代の人々が、戦争の記憶や記録を未来に残し、語り継ぐ姿に接したことはとても印象深いものがありました」とあらためて胸中を告白。「私自身、戦争を経験していない世代の人として、佳子と訪ねた広島原爆養護ホーム舟入むつみ園の皆さまとのひとときも忘れ難いものでした。私たちをあたたかく迎えてくださり、戦時中のご経験やいまご関心のあることなどを伺い、平和の願いをこめた折り紙の鳩をいただきました。東京に戻りましてから、早速宮さまと悠仁に折り紙の鳩を見せながら舟入むつみ園での大切な語らいのひとときを伝えました」と明かした。
さらに「戦後の80年を経た今年、改めて気づいたことは、身近な場所に今もなお戦争の記憶をとどめるものがいくつもあるということでした。そのうちの一つである広島市の袋町小学校平和資料館をこの夏に訪ねました。小学校は当時、避難所や救護所として使われ、壁面に被爆者の消息を知らせる『伝言』が残されていました。被爆後の様子を今の私たちに伝えてくれる場所でした。また、被爆した樹木にも会いに行きました。大地に張る根からは80年前とつながる尊い命を感じました。当時のことを思いながら戦争について考え、街の復興に向けて力を合わせていった人々のことも考えました。こうした出会いを通して、戦争の記憶は過去に留まるものではなく、現在につながっているとの思いを強くしました」と強調した。
「大切な命。命(ぬち)どう宝」との一文も記載。紀子さまは「私は毎年1回、自分の学生時代のことを大学でお話しする機会があります。今年も大学の恩師である外間守善(ほかましゅぜん)教授から琉歌を学んだこと、外間先生が沖縄師範学校の生徒として軍に動員されて多くの学友を亡くし、疎開のため乗船した対馬丸の沈没によって妹さんを亡くされたこと、そして外間先生のご友人であり、『踊ることは祈ること』と話される舞踊家の志田房子さんの琉球舞踊についてのお話をしました。大学生の頃の私のように、外間先生の辛いご経験が心に重く残る学生や、恩納なべ(うんななびー)ののびやかな琉歌、琉球舞踊の美しい衣装に心惹かれる学生がいました。戦争を体験した恩師方から私が聞き、学んだこと、そして、沖縄の人々が心のよりどころとして強い意志をもって大切にしてきた文学や芸術をつないできたお気持ちを伝えていくことにより、若い世代がその歴史や文化を知る一つのきっかけになり、共に考えていくことができればと思います」と平和への思いを寄せた。

