JR各駅のアナウンスや表示で「片町線」の言葉を耳にしたり、表示を目にすることはほとんどない。愛称の「学研都市線」が使用される。路線の成り立ちや発展によるものだが、早々に電化された一方、蒸気機関車がギリギリまで走るなど、さまざまな光景をもたらしてきただけに、歴史をたどると一抹の寂しさが残るのも事実。私的には社会人になって早々の忘れられないエピソードがある路線でもある。(訪問は11月22日)

 
 

京田辺市の中心駅である京田辺駅にはSLの動輪とナンバープレートが展示されている(写真1、2)。説明書きによると片町線では1972年までSLが走り貨物輸送を担っていた。国鉄でSLが姿を消したのは74年から75年にかけてのことなので、その時期に大阪府でSLが見られたというのは今にして思うとすごい話だ。その一方で早々に電化された路線でもある。

〈1〉京田辺駅には蒸気機関車の動輪が展示されている
〈1〉京田辺駅には蒸気機関車の動輪が展示されている
〈2〉動輪の他ナンバープレートと歴史の説明書きがある
〈2〉動輪の他ナンバープレートと歴史の説明書きがある

明治時代に既に全線開業。昭和初期には片町~四条畷間が電化された。神戸~吹田間、つまり東海道本線の大阪駅をはさむ区間より早い。画期的なことと言える。さらに戦後わずか5年で長尾までが電化され、通勤通学の足となった。

ところが、その先の長尾~木津間の電化は全く進まず、約40年もの間、非電化区間として1時間に1本程度の運行があるだけの閑散区間となっていた。なぜ長尾で電化が止まったのか、想像するに長尾までが大阪府だったからだろう。現在の利用者数を見ると、ちょっと信じられない「放置期間」だった。

片町線に転機が訪れたのは関西文化学術研究都市の開設である。大阪府、京都府、奈良県にまたがるこの計画に沿線がすっぽり入ることになり、宅地造成も進んだ。片町線もJR移管後1年の88年に学研都市線の愛称が付けられ、翌89年に電化された。91年には当時の最新車両で、今も東海道本線や山陽本線、福知山線の主力である207系が投入された。

もともとは後に開業予定のJR東西線が地下走行で既存車両では走行できないことをふまえ開発されたもので、JR東西線に接続予定の片町線に投入された。明治期の全線開通から90年間も非電化だった路線が電化されて最新車両というのは、なかなかのめまぐるしさである。さらに電化とともに新設された松井山手(写真3)は北陸新幹線の新駅が設置されることを見越したもので、めまぐるしいというレベルを超えている。

〈3〉電化とともに新設された松井山手駅。北陸新幹線がやって来る予定
〈3〉電化とともに新設された松井山手駅。北陸新幹線がやって来る予定

景色も変わった。こぢんまりした駅が多かったが、高架化や橋上駅舎化でほとんどの駅が立派になった。わずかに河内磐船だけは以前のまま(写真4、5)。交差するように京阪交野線が走っているので高架が難しかったのだと思われる。

〈4〉国鉄型の駅舎が残る河内磐船駅
〈4〉国鉄型の駅舎が残る河内磐船駅
〈5〉乗り換えの案内はおそらく国鉄時代からのもの
〈5〉乗り換えの案内はおそらく国鉄時代からのもの

その京阪交野線の河内森との乗換駅だが、外を徒歩約5分とユニークな乗り換えとなっている(写真6)。

〈6〉河内磐船と京阪の乗り換えは外を歩く形になっていて案内図もある
〈6〉河内磐船と京阪の乗り換えは外を歩く形になっていて案内図もある

四條畷市の中心駅ながら、大東市にある四条畷は都市名と駅名が異なる(写真7)。おおさか東線の開業によって並行区間である放出~鴫野(どちらも難読駅である)間に新たにできたレール配線…と注目ポイントは極めて多いが、その一方でひっそり姿を消した駅もある。路線名にもなっている片町だ(写真8、9)。

〈7〉四条畷駅は大東市にあり、四條畷市とは「条」と「條」で文字が異なる
〈7〉四条畷駅は大東市にあり、四條畷市とは「条」と「條」で文字が異なる
〈8〉超難読だがテレビCMのおかげで関西の人はほとんど読める放出駅
〈8〉超難読だがテレビCMのおかげで関西の人はほとんど読める放出駅
〈9〉こちらも難読で文字も難しい鴫野駅
〈9〉こちらも難読で文字も難しい鴫野駅

電化の歴史で少し触れたが片町は長年にわたって終点駅だった。現在の終点駅(といっても、ほとんどの電車は、そのままJR東西線に直通する)である京橋から、さらに1駅進んだところにあったが、JR東西線の全通(97年)とともに姿を消した。厳密に言うと、かつての駅近くにJR東西線の駅があるが、駅名は片町ではない。大阪城北詰という駅だ。地上に出ると、そこが片町の交差点。正直、違和感は否めない(写真10)。

〈10〉大阪城北詰駅から地上に出ると片町の交差点。片町駅は道路がカーブするあたりにあった
〈10〉大阪城北詰駅から地上に出ると片町の交差点。片町駅は道路がカーブするあたりにあった

交差点から3分ほど歩くと大阪ビジネスパーク(OBP)の入り口へと向かう橋があるが、その欄干にひっそり片町駅跡地を示す説明書きがある。明治からの終点駅としては物足りなさがある。そもそも大都会の中心部にある路線名となった終点駅が廃駅になるというのは、あまり例を見ないことだ(写真11、12)。

〈11〉橋の入り口に片町駅跡を示す説明書きが残る
〈11〉橋の入り口に片町駅跡を示す説明書きが残る
〈12〉大阪城北詰は片町とは別扱いとなっている
〈12〉大阪城北詰は片町とは別扱いとなっている

なぜ片町ではなく大阪城北詰だったのか。その理由は公式にされていないが、私なりの考えを言うと片町線という路線名がある以上、ここまでを片町線にせざるを得ないが、終着となる電車はなくなるので車内アナウンスや案内表示も面倒だ。また京橋~尼崎のJR東西線においてJR西日本は輸送だけを行う第二種鉄道事業者で施設は第三種の関西高速鉄道が所有している。となると木津から京橋まで第一種(鉄道も施設も所有)だった片町線が地下に潜った最後の1区間だけが第二種になってしまう-そのような理由で廃駅扱いとなったのではないだろうか。

路線をまたぐ長距離の優等列車が走っていないため、片町線という言葉を耳にしたり目にすることは、時刻表を見ない限り、ほぼなくなった。案内はすべて学研都市線である。一部区間でJRと競合関係にある京阪電鉄の京橋駅に「片町口」(※)の名が残るのを見ると何とも不思議な気持ちにさせられるのである(写真13)。【高木茂久】

〈13〉京阪の京橋駅には片町の名前が残る
〈13〉京阪の京橋駅には片町の名前が残る

○…片町線には個人的に強烈な思い出がある。入社間もない昭和そして国鉄時代。「エラい目に遭った」と先輩が言うので何ごとかと尋ねると、取材に向かった片町線でウツウツしていたら「ここで終点」とのアナウンス。跳びはねるように反応して慌ててホームに降りると電車は乗客を乗せたまま去っていく。「?」と駅名標を見ると「鴻池新田」(こうのいけしんでん)。「アポの時間に遅れた」とボヤく先輩に腹をかかえて笑ってしまった。その話を聞いてから30年以上がたち、初めて鴻池新田で降りた。いい雰囲気の街の喫茶店でコーヒーをいただきました(写真14)。

〈14〉ここで終点?鴻池新田で初めて下車しました
〈14〉ここで終点?鴻池新田で初めて下車しました

※京阪にも、かつて片町駅が存在したが高架化の際、京橋駅が西に移動し、駅間が近すぎたため69年に廃止された。その代替として京橋駅の最も西側に片町口が設置された。