山陽電車別府駅近くの別府港駅から2方向に走っていたのが別府鉄道である。加古川市役所近くの野口駅に向かっていたのが野口線、JR(当時は国鉄)土山駅に至ったのが土山線。大正期に開業。平成の声を聞くことなく1984年に廃線となった。ともに約4キロの短い路線だったが、一部は遊歩道などに転用され、今も往時の息吹を残している。まずは野口線の廃線跡を歩いてみた。(訪問は2019年11月、今年4月)

別府は「べふ」と読む。大分県の温泉地があまりに有名なだけに意外と難読。まずは起点となる野口駅跡からスタートしよう(写真1)。写真を見て「おや?」と思った方がいれば、私はうれしい。昨年12月に紹介した国鉄高砂線と同じ光景だからだ。

<1>野口駅跡。ここで国鉄高砂線と別府鉄道野口線が接続していた
<1>野口駅跡。ここで国鉄高砂線と別府鉄道野口線が接続していた

高砂線は山陽本線の加古川駅から南下し山陽電車の現高砂駅近くまで伸びていた。加古川から1駅目が、ここ野口。1面2線ホームを共有する形で別府鉄道との乗換駅だった。もともとは多木化学の前身である多木製肥所が製造する肥料製品を別府港付近から運搬する貨物線として敷設された。

貨物線だから目指すは国鉄の線路。野口~加古川間で高砂線の前身である私鉄の線路に乗り入れていたが、戦時中に高砂線が国有化されて乗り入れがなくなり、野口線もその後、レール供給のため休止となった。戦後に再開したものの、すでに土山線が国鉄とつながっていたため、野口線と高砂線がつながるレールが元に戻ることはなく旅客輸送がメインとなった。野口は加古川市役所のすぐそばではあるが、加古川まであと1駅という不思議な地点での乗り換えは、このような経緯からだ。

加古川駅と山陽電車の電鉄高砂を結ぶ高砂線の乗客が減っていくのと同じくして、山陽電車の電鉄別府駅を結ぶ野口線の利用者も減っていく。平成も国鉄の民営化を見届けることなく高砂線の廃止と同じ84年に廃線となった(野口線の廃止が少し早い)。

ただ、その廃線跡は40年近くたった今もしっかり残っている。野口から高砂線をたどるコースは道路転用されているだけだが、別府鉄道の廃線跡は「松風こみち」という遊歩道となって多くの市民が行き交っている(写真2)。最初の見どころは橋梁(きょうりょう)。転用が一目で分かる。その向こうにはマンションが並ぶ。廃線跡と大型マンションという組み合わせは実は珍しい。廃線の訪れは基本的に沿線人口の減少による。おそらく40年近く前は現在ほど宅地化が進んでいなかったのだろう。遊歩道沿いの住宅も道に向けて玄関が設けられている家が多い。廃線後に建築されたからだろう(写真3、4)。

<2>山陽電車の別府駅前に設置された松風こみちの解説板
<2>山陽電車の別府駅前に設置された松風こみちの解説板
<3>野口線の橋梁も遊歩道に転用されている
<3>野口線の橋梁も遊歩道に転用されている
<4>廃線跡の両側には大規模マンションができている
<4>廃線跡の両側には大規模マンションができている

駅跡は休憩所となって存在する。当時の駅名は野口から藤原製作所前、円長寺、坂井、別府口そして別府港と続く。藤原製作所は廃線のかなり前となる72年に「テイエルブイ(TLV)」として新発足、今ももちろん健在だが駅名は最後までそのままだった(写真5)。

<5>藤原製作所前の駅跡
<5>藤原製作所前の駅跡

続く円長寺駅跡は公園となっていて、かつて野口線を走っていた31年生まれの「キハ2」が静態保存され駅名標も残る。月に1度「旧別府鉄道キハ2号を守る会」の皆さんが修復作業を行っている。住宅街にたたずむ貴重な車両。ぜひ1度、目に焼き付けてほしい(写真6~9)。

<6>静態保存されているキハ2
<6>静態保存されているキハ2
<7>キハ2の解説板
<7>キハ2の解説板
<8>廃線時の案内も残されている
<8>廃線時の案内も残されている
<9>当時の駅名標も残されている
<9>当時の駅名標も残されている

坂井駅付近の交差点にはレールが今も残されている。別府口は山陽電車別府駅との乗換駅だった。野口線は山陽電車をアンダーパスしていた。高砂線の際も記したが、これは先に敷設されたのが野口線だということ。ほんの少し野口線が先に開業したため、大正期で都心以外に高架という概念が少なかったこの時期にでも山陽電車は上を行かざるを得なかったのだ(写真10~12)。

<10>交差点にはレールが残っている
<10>交差点にはレールが残っている
<11>山陽電車との交差地点での廃線跡。上に見えるのは別府駅のホーム
<11>山陽電車との交差地点での廃線跡。上に見えるのは別府駅のホーム
<12>山陽電車との乗換駅だった別府口駅跡の休憩所
<12>山陽電車との乗換駅だった別府口駅跡の休憩所

山陽電車を越えると終点(※)の別府港駅まではすぐである。土山線と野口線はここで合流。イトーヨーカ堂のあたりが駅や機関区の跡。多木化学へつながる専用線もあった。すぐそばには別府鉄道の本社がある。鉄道事業からは撤退したが会社としての別府鉄道は今も現役である(写真13、14)。

<13>このあたりが別府港駅だった
<13>このあたりが別府港駅だった
<14>別府鉄道の本社
<14>別府鉄道の本社

山陽電車の別府駅に戻る。すぐ隣を山陽新幹線が走り山陽電車のホームにいると猛烈なスピードで新幹線が駆け抜けていく。新大阪~岡山の開業が72年なので12年間にわたり、非電化の単行列車と山陽電車そして新幹線が一堂に会していたことになる。

別府駅から加古川駅へはコミュニティーバスの「かこバス」が運行されている(写真15、16)。野口線の代行という位置付けではないが、かなり近い走り方をしている。ただし市役所方面に真っすぐ延び、総距離が4キロにも満たなかった野口線とは異なり、浜の宮駅や鶴林寺を経由するため所要時間は30~40分。野口での乗り換えを考慮しても野口線よりは少し遅い。それでも昼間も1時間に1本、週末は2本と廃線時の野口線より本数は多くなっている。沿線で宅地開発が進んだからだろう。のんびり走っていた列車に思いをはせながら、遊歩道をのんびり歩くのも決して悪くはない。【高木茂久】

※別府港から先にもう1駅あったが、大正期のうちに廃止となっている。

<15>山陽電車の別府駅
<15>山陽電車の別府駅
<16>かこバスの時刻表。本数は多い
<16>かこバスの時刻表。本数は多い