野球記者になって13年。渡した名刺の数は1000枚を超えた。

「初めまして」からスタートする人間関係。移籍もあれば引退もある。目の前に現れ、成長し、衰え、去っていく人々。縁がずっと続く人は限られる。記者とは選手の人生を定点観測する仕事…そう感じさせてくれたのは、今は西武で渉外、編成を担当する土肥義弘氏(43)だった。

昨年担当した西武で投手コーチをしていた。英語の論文も読み込む努力家で、菊池や多和田の脱皮に大きく貢献した。フロント入りした今年は編成業務だけでなく、トラックマンのデータ処理や大リーグ・メッツとの業務提携にも奔走。「他の人にくっついて勉強だよ」とフル回転した。

約1年ぶりに再会すると「干支(えと)が1周したねぇ」と笑われた。出会いは干支(えと)1周分さかのぼる。07年に初めてプロ野球担当となり、横浜(現DeNA)を受け持った。先発の土肥は直球が130キロ台。テクニックを駆使して抑えていく姿に引かれた。

それから、さまざまな顔を見ることになる。

解説者時代、首脳陣によく取材する姿を見かけた。担当球団の選手の特徴も、よく聞かれた。コーチ業にフロント業。肩書が変われど、串が通ったように変わらないものがある。逆境を次につなぐ生き方だ。

97年ドラフト4位で西武入団。2年目から1軍に定着し、中継ぎの地位を築く。ただ、先発を志願してから機会に恵まれず、04年途中に横浜へ移籍。そこでローテをつかむ。古巣に戻り、10年オフに海外FA権を行使。メジャーはかなわなかったが、最後はハワイの独立リーグへ。選手兼コーチとして過ごした。

トレードが先発経験をもたらし、メジャー不合格がコーチ経験をもたらし、渉外の世界を意識するきっかけにもなった。「自分で次につながるよう、仕向けたんだよ」と打ち明けた。

「このままやっても一流にはなれない。ならば人にないことを強みにしよう、先発もやって視野を広げよう。実際にやったのと、やらないのとでは違う。メジャー挑戦も視野を広げるため。人生80年か85年か分からないけど、野球ができる時間は限られる。後悔したくない」

目標を定め、やるべきことを決め、貫く。スペシャリストの力を結集したジェネラリストとして、たくましく野球界を歩む。

ことわざ「転石苔(こけ)むさず」を思い出した。行動をコロコロ変えても成功しないという解釈と、柔軟に精力的に動く人は、いつも新鮮で輝いているという解釈がある。土肥氏はもちろん後者だ。記者が担当したプロ球団は5つ。今はアマチュア担当。転がりながら自分を磨けるかな。

選手の人生を定点観測することで、自分の人生にヒントを授かることもある。この仕事の特権でもある。【古川真弥】