3月で埼玉栄の野球部総監督を退いた若生正広氏(69)。母校東北(宮城)の監督の退任後を追った。

     ◇     ◇  

05年、九州国際大付(福岡)の監督に就任したが、最初はなかなか受け入れられなかった。学校に「早く帰れ!」などと投書が届いたこともある。「最初の年は勝てる戦力がなかった」。原点に返り、一からチーム作りに取り組んだ。

「まずは野球の基本。グラウンド整備から教えましたよ」。全力疾走にあいさつ、技術も基本から教えた。「まずはトレーニングで運動能力をつける。股関節を柔らかくね。そうすれば守備範囲が広くなるし、足も速くなる」。東北では新チームのスタートは腹筋3000回が恒例。私生活も技術も、基本を徹底。東北流を貫いた。次第に九州の中学指導者にうわさが広まり、力のある選手が集まった。09年夏に甲子園に出場すると、以後10年間で春夏3度の出場。11年センバツで準優勝に導くと、応援の声が寄せられるようになる。「今でも九州は楽しかったなぁと思いだすよ」と、思い出深い土地になった。

一方、東北は、教え子の五十嵐征彦氏(44=現校長)、我妻敏氏(38=現東北職員)へと引き継がれた(現在はOBの富沢清徳監督)。我妻氏は「野球以外の規律、しつけは若生先生の教えを引き継ぎました」と振り返る。

「若生イズム」の大切さを実感したことがある。11年、東日本大震災の時だった。その年のセンバツに出場。大会後も仙台は復興には程遠く、約10日間、練習を休みにしてボランティアに出かけた。家の泥をかき出す作業から荷物の整理、選手たちは嫌な顔ひとつせず、初対面の人にも丁寧に接した。そして心からの「ありがとう」の言葉を受け取った。我妻氏は「これが野球を通じた人間形成、社会に出て通用する人間だと思った。それはプレーにも通じるんです」という。守備でのカバリング、打てなかった次の打者が打つ。「野球も私生活も自分次第でできることは絶対に100%やりきる、という目標を掲げてきました。それは若生先生から教わった野球ですから」。イズムは確実に引き継がれていた。

しかし、恩師の目は厳しい。若生氏は「勝つためには心の教育が大事。でも、負けたらダメ。そこを基本に戦う集団作りをしなければ」という。とことん追い込み厳しさを体で覚える。今の時代、古い野球かもしれない。耐えてこそ、体の中に強い精神力が宿り勝負強さが生まれる。「今はそこまでやると問題になっちゃうけど、厳しく練習するしかない」。心の教育の上に築かれた力強い野球。それが目指した野球だった。

我妻氏には今でも忘れられない言葉がある。震災直後のセンバツで若生氏と再会した。「敏、いいか。来たからには震災は関係ないぞ。勝負だ。絶対に同情されるようなことをグラウンドでは見せるなよ」。厳しい言葉が「戦う集団」を目覚めさせた。大差がついても粘り強く戦う姿に大歓声が湧いた。その大会で九州国際大付は準優勝。東北出身の2人の指導者が被災地に元気を届けた甲子園だった。(つづく)【保坂淑子】