「夏の呪縛」にさいなまれた渡辺が行き着いた先は北海道だった。「どこか遠くへ、遠くへ行きたかった」。女満別空港へ降り立ち、網走、知床を転々とした。釧路のビジネスホテルに着くと学校へ辞表を送った。しばらくして妻紀子に電話をかけた。「金もない、何もない。心細さの募る夏…」。ポツリ、ポツリと話す声を聞いた妻の脳裏には最悪の事態がよぎった。「後々、女房に『摩周湖にでも飛び降りて死ぬんじゃないかと思った』と言われたが、もしかしたら、そういう考えもあったかもわからない」。全てが嫌だった。

しかし、1週間ほど滞在したころ変化が訪れた。狭い学校のグラウンドで、牧草の生える広場で、夢中で野球をやっている少年たちを見ている自分に気付いた。「また血が騒いだ。こんな環境で野球をやるのなら、うちの方がマシなのかなって」。足が神奈川へ向いた。グラウンドへ戻ると主将の佐藤正則らが待っていた。

「監督がやってくれなきゃ僕らはやめます、と言ってきた。ようし! やってやろうと。大きな節目だった」

本気でやっていることが分かれば、厳しくても相手に伝わる。それがうれしかった。当時は、複雑な家庭環境を抱える選手も多かった。高校時代、元巨人の佐野元国は「佐野・クリストフォロス・ハザカキス」といった。1歳の時にギリシャ人の父を亡くし、女手一つで育てられた。インターナショナルスクール5年の時、横浜市の滝頭小学校3年へ編入。年齢制限の関係で、高校野球はほぼ1年間しかできない。「母に苦労をかけたくない」と進学すら迷っていた佐野に、プロのスカウトも声をかけていた。事情を知った渡辺は「分かった。おれに身を預けろ」と言った。

苦労して育ててくれた両親と、野球しかなかったあのころの自分-。自らの境遇と重ね合わせ、プロへ入れてやりたいと思った。

佐野が2年秋で“引退”した後も、甲子園を目指す選手たちと同じように練習をさせた。相手監督に頭を下げて1試合だけ練習試合に出場させたり、2軍戦の指揮を執らせることもあった。

ドラフト前、訪ねてきた佐野に懇願された。「日本国籍を取得したい。その時に、渡辺監督の『元』という1字をもらえないかと言われた」。佐野は77年ドラフト3位で近鉄へ入団した。

佐野 当時は厳しいだけで楽しいなんてなかった。でも、監督を信じていた。分岐点を支えてくれたのは監督。渡辺監督は僕の原点です。

渡辺は「厳しくても、真剣に気迫を持って向かえば選手は分かってくれる」と確信した。このころから、教員免許取得のため関東学院大へ通い始めた。78年夏初めて夏の甲子園に出場。そして、80年夏。元中日の愛甲猛らを擁し2度目の夏の甲子園切符をつかんだ。(つづく=敬称略)【和田美保】

(2018年3月21日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)

78年7月、15年ぶり2度目の甲子園切符を手に入れた横浜・渡辺監督
78年7月、15年ぶり2度目の甲子園切符を手に入れた横浜・渡辺監督