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引退後の世界

もはや元プロ選手ではなく医療者 元広島川島堅氏3

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 元広島の川島堅さん(49)は、右肘に異変を感じた。「甲子園で最も美しい」と評されたフォームから、スリークオーターに変えて約2カ月がたった5月中旬、ウエスタン・リーグで登板中だった。


 川島さん(以下、敬称略) 投げた瞬間に肘がブチッと音を立てました。何が起きているか自分でも分かりませんでした。1球投げるごとに電気が走るように痛みました。でも、当時は故障者が多くて2軍でも投手が足りなかった。迷惑をかけてしまうと、何も言えずに夏頃まで投げ続けていました。


川島さんが営む一橋整骨院の壁には現役時代のユニホームが飾られていた
川島さんが営む一橋整骨院の壁には現役時代のユニホームが飾られていた

 夏場が過ぎて、さすがに限界を感じた。トレーナーに打ち明けて病院で検査をした。もう9月になっていた。


 川島 遊離軟骨でした。放っておいても消えるものではないと聞いて、その場で手術を決めました。手術を受けて、丸1年はリハビリでした。


 納得できていないままにフォームを変更した。さらに肘が痛んでも、チーム事情を考えて長期間、我慢して投げ続けた。


 川島 今思えばですけど、もっと自分の意見を言えばよかったのかなとは思います。ただ、手術した後は元のフォームに戻しました。同じことを繰り返したくなかったし、たとえダメだとしても自分が納得できるようにと考えました。


 プロの世界は厳しい。川島さんが1軍に定着できないうちに、次々と新しい戦力が入ってくる。2軍で結果を残しても1軍に呼ばれなくなった。


 川島 佐々岡さんとか、次から次へといい選手が入ってきました。だんだんと私はお呼びじゃなくなってきた。辞める前の年かな、教育リーグで3試合連続完封をしたけど、それでも1軍に呼ばれませんでした。もう難しいんだなと感じるようになりました。


 手術をした翌91年は1軍に上がり、先発マウンドにも立った。4回2/3を投げて8安打7失点だった。この年は1試合の登板に終わった。92、93年は1軍登板なし。94年には2試合に登板した。これが最後のマウンドになった。

 1994年(平6)10月に球団から戦力外通告を受けた。川島さんは現役続行の道を探した。


 川島 戦力外は覚悟はしていましたよ。もう前の年から「いつ言われてもおかしくない」と思っていた。ただ、手術した右肘も元に戻ったという感覚があって、もう1年は思い切りやりたいと思いました。でも、今のようにトライアウトもなかった。オリックスとダイエー(現ソフトバンク)のテストを受けたけど、もう時期が遅くてね。すでに新しい戦力を補強した後だった。結局、テストはうまくいきませんでした。


 現役にこだわり、台湾球界を模索した。最終的に、広島球団と提携していた時報イーグルスに入った。


 川島 最初は別の台湾球団と話をしていたんです。でも、球団が話をしてくれた。クビになった球団の手を借りるのも何だなと思ったけど、お世話になりました。でも、ここでも登板機会はあまりなかった。私は台湾では外国人選手でしょう。外国人枠もあるし、提携しているから広島の若い選手も来ます。首脳陣とすれば新しい選手を使いますよね。ほとんど投げられませんでした。


 台湾球界では、わずか11試合しか登板できずに終わった。現役を望んでいた川島さんの心境に変化が生じた。


 川島 台湾でもやったし、もう、そろそろ区切りをつけようと思いました。


 フォーム変更による肘の故障が悔やまれる。


 川島さん いや、私がプロで活躍できなかったのは肘が原因ではありません。高校ではトップレベルでも、プロで活躍するためには、さらにレベルアップが必要だったんです。だから単に力が足りなかっただけ。周囲からは「故障でやめた」とみられるところもありますが、私自身は1度も肘のせいだと考えたことはありません。


1988年5月、広島市民球場で投げる広島川島堅
1988年5月、広島市民球場で投げる広島川島堅

 引退後の生活については考えていたのか。


 川島 まったく考えていませんでした。台湾から戻って1、2カ月は何もする気が起きず自宅でゴロゴロしていました。でも「何か始めなければ…」と思って。台湾での給料はほとんど使っておらず、少しばかりまとまったお金がありました。これを元に大学へ行くか、商売を始めるか、何か資格を取るか。そんなことを考えました。ただ、小さい頃から野球をやってきたので、何か生かせる道はないかなと考えて、興味半分で治療院を紹介してもらいました。


 広島時代のトレーナーに連絡して、千葉・船橋市の治療院を紹介してもらった。まだ、この道に進むと心を決めたわけではなかった。


 川島 とりあえず見学に行ったら、その場で「じゃあ明日から来て」と言われ、そのまま働くことになりました。初めての社会人生活が始まりました。


 何も分からないままに治療院で仕事を始めた。必要な資格に関する知識もまったくなかった。


 川島 最初は受付に立っているだけでしたね。本当に1日中ずっと立っていました。そこで先輩…といっても私より年下なんですけどね。先輩が患者さんに接するところを見て、こういう仕事なんだなと勉強していきました。朝早くから夜も遅いので、近くにアパートを借りました。


 働きながら3年間、学校に通って柔道整復師の資格を取った。その後、勤めていた治療院が東京・三鷹に治療院を出すことになり、そちらに移った。


 川島 ここでも下積みですね。その後、武蔵境の整骨院を任され、雇われ院長になりました。ここで6年間。合計で11年ほど、この会社でお世話になりました。そろそろ独り立ちした方がいいと思い、2007年に独立しました。


 東京・小平市の西武多摩湖線「一橋学園駅」から徒歩3分ほどの場所に「一橋整骨院」を開いた。今年で12年目を迎える。


 川島 赤ちゃんからお年寄りまで幅広い方が来てくれます。赤ちゃん? 肘が外れたとか、そういうこともあるんです。スポーツをやっている学生さんも来ますよ。野球をやっている子もくる。機会があればトレーニング方法を指導することもあります。


 川島さんは「“甲子園史上最も美しいフォームの投手”が指導 野球肩・野球ひじを治す本」(マキノ出版)という本を出版した経験もある。肩やひじを痛める原因や対策、トレーニング方法などをまとめ上げている。

 元プロ野球選手として、スポーツ選手にターゲットを絞ってケアする道もあるのではないか。そう問うと、即座に否定した。


 川島 なるべく多くの人の助けになりたいんですよ。自分で窓口を小さくしてしまうと、来てくれる人も限られますよね。それはしたくない。困っている人の助けになりたい。できる限り「すみません。できません」とは言いたくない。実際にはできないことはありますけどね。スポーツに特化するのではなく、なるべく幅広くやっていきたいと思っています。


 プロ入りする際にお世話になった広島スカウト統括部長の苑田聡彦さんが、ときおり電車を乗り継いで一橋整骨院まで来てくれる。苑田さんを特集したNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」でそんなシーンが流れた。


 川島 見ました? たまにいらっしゃってくれます。いまだに気にかけてもらって、うれしいですね。


 今後の目標は何か。


 川島 ここは独りでやっていますが、なるべく独りでやり続けていきたいと思っています。いくつまでできるか分からないけど、体が動く限りはやっていきたいですね。野球をやっている期間より、この世界にいる方が長くなってきました。20年を超えましたから。だから、もう「元プロ野球選手」ではなくて「いち医療家」という気持ちでやっています。


 野球を始めた小学時代から現在までを語ってもらった。終始、穏やかな表情とやさしい口調だった。こんな先生なら、痛みがあって来院する患者さんも安心できるだろう。

 取材後にもう1度、川島さんの高校時代の映像を再生してみた。彼の人柄に触れた後だからだろうか。より一層、優雅で美しいフォームに映った。【飯島智則】

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