西日本豪雨で大きな被害を受けた広島で17日、第100回全国高校野球選手権広島大会が開幕した。当初は7日の予定だったが、県内の被害は大きく、最終的に10日遅らせての開幕となった。

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 今年2月上旬、広島・如水館の迫田穆成(よしあき)監督(79)の元を訪れた。如水館での選手への接し方、広島商監督時代のこと。いろいろな話を聞かせてもらったが、迫田監督の現役時代の話がとても記憶に残った。

 迫田監督は1956年、広島商2年の時に甲子園に初出場した。その際に大阪の県人会が激励会を開いてくれたという。テーブルいっぱいに並んだ中華料理。

「私ら(中華料理と言えば)ラーメンしか食ってない時代なんですよ。ラーメンしか知らんのにうわーっと出てくるじゃないですか。大騒動で食べて」。

 食べても食べてもなくならない。そのうちチームメートの顔色が悪くなり始めた…。

「どうしたんや言うたら、最後まで食べられないと。私らが食べすぎて残すなんてない時代なんですよ。それぐらい食べる物に飢えとったから」。

 その時の記憶は、迫田監督を始め、チームメートの中に強く残った。その後、甲子園を目指す合言葉は「中華料理、食いに行こう」だった。練習中に気が抜けたようなプレーがあれば「お前、中華料理食いたないんか! だったらちゃんとやれ!」という言葉が飛んできた。その後、迫田監督は高校2年時に甲子園春夏連続出場を果たし、3年夏には主将として全国制覇を成し遂げる。

 迫田監督が6歳の時、広島に原子爆弾が投下された。原爆症で亡くなる同級生もいて、その度に「お前たちも気をつけんと、原爆症で死ぬかも分からんぞ」と言われた。迫田監督の父は、原爆の影響で歯が抜け落ち、30代で総入れ歯になったと言う。「草木は50年生えんじゃろう、と言われとったような時代ですからね、最初は」。建物も草も木も何もなくなり、広島はずっと遠くまで見渡せてしまう。そんな状況の中で迫田監督が高校3年の夏、広島商が甲子園で全国制覇を成し遂げたことは、唯一と言える明るいニュースだった。

 「そういうふうなことを経験しとるから、私らが甲子園行って勝てたっていったら大騒動ですよね」

 広島に帰ると、何万人という人が出迎えてくれた。町内ではちょうちん行列が行われた。当時のチームメートには、半身がケロイド状の選手もいたと言う。原爆の傷痕がいたるところに残る中での優勝だった。

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 西日本豪雨で、広島県では多くの人が犠牲になった。まだ行方不明者もいる。当時と同じではない。けれど今年も、広島県民に寄り添う夏になる。【磯綾乃】