宮本慎也氏、野村監督に褒められた骨折隠してプレー

  • 多くの報道陣の前で、亡くなった野村氏の話をする宮本氏(撮影・狩俣裕三)
  • 94年12月、ヤクルト新入団発表で記念撮影する、後列左から稲葉、北川、宮本、吉元、前列左から酒井球団社長、野村監督 

南海(現ソフトバンク)で戦後初の3冠王に輝き、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が11日午前3時30分、虚血性心不全のため84歳で死去した。通夜、告別式は身内だけで行い、後日お別れの会を行う予定。

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これまでたくさんの人に支えられてきましたが、野村さん以上に私のプロ野球人生を支えてくれた人はいません。プロ入りした私に“明確な道”を示してくれた最大の恩師。野村さんとの出会いがなければ、宮本慎也という野球人は存在しなかったと断言できます。

思い出を挙げればきりがないほどたくさんあります。忘れられないのが、入団2年目で骨折した試合後の会話です。当時、レギュラーを取るのに必死で、第1打席に死球を受け、頑張って出場していましたが7回で限界。右腕の感覚がなくなり病院に直行しました。エックス線では右腕の骨がポッキリ。「チャンスをものにできなかった」とガックリし、監督室に報告にいきました。すると骨折を隠してプレーを続けていたことを「根性あるやないか」と褒めていただきました。

当時のヤクルトは「ID野球」を掲げ、根性を褒めてくれるような監督だと思っていませんでした。しかし翌年は「宮本を育てる」と言って、チャンスをもらいました。確認したわけではありませんが、骨折しながらプレーを続けた執念を認めてくれたのでしょう。「データ重視」で辛口コメントの多い野村さんは、冷たいイメージを持っている人が多いでしょう。でも、長くお付き合いさせていただくと「根性論」や「人情」をとても大事にする方だと分かります。厳しいけど、優しい恩師でした。

一番長い時間を2人だけで過ごしたのは、引退報告のときでした。自宅を訪れると「おう、お疲れさん」とひと言。ステテコ姿のおじいちゃんとスーツの中年男2人が、リビングルームで高校野球をテレビ観戦。約1時間、野村さんの解説を聞いていました。私が言うのも生意気ですが、人を褒めることが苦手の恥ずかしがり屋。とにかく野球が大好きでした。野村さんを通じて学んだことは多すぎて、言い尽くせません。感謝の言葉も尽きません。

監督をやめてからは「野村さん」と呼ばせていただいていました。「野村監督」と言うと「もうワシは監督やない」と照れ隠しで怒られそうなので「さん」で通していました。最後は「監督」と呼ばさせてもらいます。野村監督、本当に、本当にありがとうございました!(日刊スポーツ評論家)